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2016第十四次瀬戸内カヤック横断隊レポート 井上 好司

第14次瀬戸内カヤック横断隊レポート 井上 好司

はじめに

 14次の参加メンバーは11名だった。僕が参加した過去2回は18~19名だったから明らかに少ない。少ないなりの良さがあって、今次のチームには誰かに与えられた訳でもない自分の役割を各々が果たしていたような、自立している自己完結したメンバーが集まったある程度成熟したチームの姿を見た気がした。
 ただ初参加者がいないという事にはいささか気になった。12次は6~7人いて13次は1人。そして14次はとうとう0人。10~11次のメンバーは30人を超えいろんなレベルの初参加者がいてその後様々な議論がされたようだ。その議論の結果が初参加者の減少と関係あるかどうかは僕にはわからないが、初参加者がいない年があってもいいと思うけどそれが常態化するのはよくないように思う。
 初参加者を招くのにハードルを低くするようなことはすべきではないが、ハードルの位置がどの辺りなのか見えにくいのも事実で、初参加者が多くなったり誰もいなかったりするのもそれが原因の一つではないか。
そんなことを考え、今回のレポートは12次~14次と3回参加した僕の目線で、アウトドアはやっているけど海の事は知らない、或いはシーカヤックはやってるけど横断隊の事は知らないという人向けに最新の横断隊を紹介するというスタンスで書こうと思うに至った。
 また全く個人的な事だが、中途半端にしかやっていなかった雪山を今シーズンは真面目にやろうと、10月半ばからトレーニングを始め、厳冬期はもちろん初めてとなるGWまで雪山をやってシーズンを閉めようと心に決めていた。と言う訳で横断隊から戻った翌週からアイゼントレに戻りその後ほぼ毎週末アイゼンを履いていた。レポートをじっくり書く余裕を作る自信がなく、今回は小出しの連載で提出というイレギュラーな方法を取らせて頂いた。

1、「横断隊の一日」

 不思議な7日間だ。この7日間の横断隊は無償だけど仕事のようなものだ。海旅から多くのものを賜る。少なくともレクリエーションではない。瀬戸内とは言え初冬の海は厳しい。極めてストイックな旅を強いられる。すばらしい景観・国立公園の景勝地が多々ある中、とにかく目的地に向って前に進むことを最優先とする7日間。14次である今年は小豆島の西端にあるヘルシービーチが集合場所。一昨年、12次に初めて使われた浜だ。毎年交互に出発地と目的地を入れ替える。目的地は山口県上関の祝島。横断隊とは切っても切れない縁のある島。距離はおおよそ260km。
 航海の計画は7日間の日程と集合場所、目的地が決められるだけ。前日集合場所に集まるまで誰が参加するのかわからない。何人集まるのか隊長ですら知らない。7日間毎日リーダーが変わる。前日夜に隊長から明日のリーダーが指名される。当然のことながら登山で言う所の「山行計画書」のような物は作らない。その日の気象条件で航海ルートは変わるしその日のリーダーの考え方よっても変わる。1日目のビバーク地すらおおよそこの辺りとはイメージできても事前には決まらない。今回の1日目のビバーク地が笠岡諸島の小島という小さな島になるとは出発時点でだれにも想像できなかっただろう。もちろんリーダー本人にも。だから計画書のようなものは作れないといった方が正しい。
 海上にはトレースは残っていない。山行記録のような物をネットで探してもありはしない。あったとしてもそんなものは参考にならない。海は天候・潮汐などの組み合わせで毎日変わるから。リーダーを担当する日はその人にとって究極のナビゲーション訓練とリーダー修行をする一日となる。
 横断隊には明確な参加資格というものはないが、大雑把に言うと、装備・漕行・生活技術のすべてにおいて自己完結できる事。プラスαとして、ついて行くのではなく自身でルートプランニングができることが望ましい。あとは10日以上の休みが取れる事。一般的に漕ぐ7日間の前1日と後ろ2日の移動日が必要になる。但し、途中参加途中離脱は認められている。

 標準的な横断隊の一日をご紹介しよう。
 前日夜に隊長から指名されたリーダーが明日朝出発前に行われるブリーフィングの時刻を決める。6時半ごろが多い。各メンバーは出発準備のすべてを整えてブリーフィングを迎えなければならない。起床時間は自由。ブリーフィングに間に合えばいい。朝食を取る取らないも自由だ。そこに縛りはない。
 ブリーフィングではその日のリーダーから、地図を見ながら今日一日の天候・潮汐・行程のイメージが告げられる。前夜リーダーに指名された者はおそらく深酒を控えて予習に専心する。以前は当日朝にリーダーを指名していたこともあったらしい。それなら全員がリーダーを務められるよう予習をしておかなければならないことになる。
 11月下旬の瀬戸内では6時半はまだ暗い。ヘッドライトを点灯させながらのブリーフィング。出艇は7時前になるがその時点ではヘッドライトのいらない明るさになっている。時々ヘッドライトを付けたまま海に出るものがいて笑いものになる。
 特別条件が悪くない日については最低限30km、標準40km、行けるならそれ以上の距離を稼ぐことがリーダーに課せられる。手漕ぎであるシーカヤックは潮と風の影響を受けやすい。追い潮・逆潮、追い風・向い風でスピードが全く変わる。多島海である瀬戸内には島と島に挟まれた狭い海域(これをまさしく瀬戸という)を通らねばならないところもある。有名どころでは「しまなみ海道」。しまなみにはその名も恐ろしい「舟折の瀬戸」と呼ばれる難所もある。そんな瀬戸には逆潮の時間帯には入れない。突っ込んでも前に進めずルームランナー状態になるのだ。「潮待ち」をする場合もある。
 約1時間漕いで10分程度の海上休憩を繰り返すが時には上陸してトイレ休憩。昼飯時には30~50分程度のランチ上陸休憩。16時頃を目安にその日夜を明かす浜を決めて上陸。
 上陸してまずすることは各人の艇を満潮ラインの上まであげる。満積載した艇を一人で動かすことは無理なので、1艇につき4~6人で担いで移動する。身体はインナーまで全身濡れている。かぶった海水と汗。だから浜に上がると冷たい。全艇移動を済ませたら次に流木拾い。焚火の燃料集めだ。朝の7時頃から約9時間漕いできて疲れ切っている身体に鞭打って歩きにくい浜を遠くまで歩いて流木を集める。焚火に火が付いたら火に当たりながら着たまま服装を乾かす。少し乾いたら1枚ずつ脱いでいってインナーまで乾かすのだが、その前に暗闇が迫る。ヘッドライトの用意がないとこの後えらいことになる。火から離れて自分の艇まで行ってライトを装着。本当ならそこでテントも出して張りたいところだが火から離れると寒くてすぐに焚火に戻りたくなる。
人によって様々だが僕はまた焚火に戻ってインナーまである程度乾かしてから艇に戻る。もう真っ暗。艇に戻って着替え、艇の近くにテント設営、明日の為の行動食の補充とマップケースの地図の入れ替えなどを済ませてから食事の準備をして焚火に戻るのがいつものパターンだ。焚火に当たって酒を飲みながら食事を作って、みんなで焚火を囲んで一緒に飲み食いする。至福のひと時だ。
 一息つくのが20時ごろ。その頃から今日の反省会が始まる。当然のことだが飲みながらで良い。リーダーから一日の振り返り、感想や反省の弁。他の者から質問、説明、賞賛等々。この反省会は中身が濃い。とても重要。反省会の締めは隊長から明日のリーダー指名。明日のリーダーから明日のブリーフィング時間が告げられて一日が終了する。

2、「アウトドアするという事」

 横断隊は「シーカヤックガイド養成プログラム」・「シーカヤックガイド道場」なのだそうだ。あの人が言うのだからきっとそうなのだろう。でも僕にはピンと来ない。たぶん僕にとっては違う。あえて言うなら、「海旅人養成道場」。
シーカヤックを漕ぎだしてもう7年ほどになるが最近になって僕はシーカヤックで航海すること海旅をすることが好きなんだという事に気付いた。日帰りでツーリングしたり1~2泊のキャンプツーリングは楽しい。波音を聞きながら気の合った仲間と酒を飲みつつ暗闇を感じ月明りを感じる事の大切さを知ることができたのはシーカヤックに出会えたお蔭だ。一週間程度の商業ツアーに参加するのもとても楽しい。でも自然と向き合っているかというと、向き合っていない訳ではないけど希薄だ。大事なところをガイドに任せてしまって自分で感じ考える機会を失っている。「大事なところ」は言い換えると「最も面白いところ」と言える。
 ルートプランニングを自分でしようとすると当然のことだが自然と正面から向き合うことになる。天候・風向き・潮汐・はるか遠くの低気圧・目に見える地形・目に見えない地形・海底の地形などなど。予想し得るリスクや困難を避けなるべく安全に行けるルートを考える。万一の場合の逃げ場を用意する。アウトドアをするという事はこういう事なんだと思う。
 都会の生活はあらゆるリスクや困難を可能な限り取り除いたところでなされている。都会人はリスクや困難が取り除かれたところで生きている。とても素晴らしいことだ。
 アウトドアをするという事はそのリスクや困難を取り除いていないところに身を置くことに意味があるのではないか?整備された登山道を歩くことや商業ツアーに参加するという事はリスクや困難を可能な限り取り除いたところに身を置いているに過ぎない。リスクや困難を避ける為に感じたり考えたりしなくても安全を保つことができる。「都会感覚のままのアウトドア」。
 シーカヤックを真面目にやっている人なら誰もが感じたことがあるだろう。浜から艇を滑らせて海に浮かんだ瞬間、今まで自分の感覚器官に纏っていた物が取り払われて直接感じ始める快感と怖れ。例えば風の向き・強さ・湿り気など都会ではあまり感じていなかったものを感じ始める。纏っていた物を取り払ったおかげで、自然が僕に様々なことを語りかけてくれているようだ。こんな感覚は商業ツアーや整備された登山道を歩いても少しは感じることはできる。でもその濃度はかなり違う。あたかも自然が僕を迎え入れてくれたかのように思えてくる。
 僕が好きだという航海・海旅とは自分の感覚をそういう状態にして海に出る事だ。(これを山でもできるなら山旅でもいいのだが…)自分の感覚で感じ取りその感じ取ったデータを基に考え行動を決定する。言葉にすれば一行にしかならないがこの内容は膨大だ。プロの将棋棋士が百手先を考えながら一手を打つように、剝き出しになった感覚が感じ取るデータ量は膨大でその中から必要なデータを取捨選択してそれを基に考えて決済する。それを瞬時に、長くてもせいぜい5秒くらいで。
海旅はそんなことを繰り返しつつ行われていく。僕にとってそのトレーニング場になっているのが「横断隊」だという事に気付いた。という事は横断隊は練習の場であって本番ではない。瀬戸内をゲレンデに7日間行われるトレーニング。瀬戸内を道場として行われる修行。本番は山用語では「本チャン」。横断隊が本チャンでないならどこかで本チャンをしなければならない。本チャンをすることのないトレーニングなんて意味ないじゃん。
 という事で今年のGWに初めてソロ遠征をやった。大阪から瀬戸内に入るのにはどうルートをとればいいかから考え始めた。結局和歌山の加太から出艇、友ヶ島経由で淡路島に渡り南岸を西進して紀伊水道を鳴門に渡る。さすがに鳴門海峡に突っ込むのは嫌なので小鳴門海峡を抜けて瀬戸内に入った。これは今後も続けるつもりだ。もちろん海域を替えて。
だから横断隊は「海旅人養成道場」でもあるのだと僕は思っている。ガイドになるつもりのない人も参加していいのです。
 今年3度目の横断隊で初めてリーダーを務めた。横断隊のリーダーはナビゲーション訓練とリーダー修行だと先程(第1編)書いたが、ナビゲーション訓練はリーダーでなくても本人次第である程度はできる。1回目・2回目の時にリーダーについて行きながら僕自身ナビゲーションの練習はやっていた。でもリーダー修行はある程度想像はしていたけどメンバーとして漕ぐ場合やソロで漕ぐ場合とパーティーで漕ぐのとはかなり違う。究極のガイド修行たるゆえんはリーダー修行の行き着く先なのかもしれない。

内田正洋: ハハハハハ・・・そうなんだよ、シーカヤックアカデミーだからして、商業ツアーガイドを育てるというのが始まりだった。もちろん、ガイド志望じゃなくても参加できる・・・とはいえ、商業ツアーガイドは、プロである。プロフェッショナルというのは、本職でもあるけど、専門家や専門的な人まで意味しているから、シーカヤックのプロ養成なんだな。
井上好司: 僕はシーカヤックの専門家になるの?
うーん、海旅人になる、でいいじゃん。
内田正洋: だんだん、専門的になってんじゃん!
井上好司: へー、そーなん?
山屋にこの世界の魅力を伝えようと、いろいろ考えているけど。
内田正洋: 「シーカヤック教書」118ページ、カヤック隊の行動というところを読んで下だされ・・・(*1)
井上好司: 誰かに貸して返ってこない。
内田正洋: 売っている
井上好司: 既に二冊買った。もう買わん。
内田正洋: あげようか?
井上好司: ありがとうございます。お気遣いなく。またお話し聞かせて下さい。
内田正洋: ソロ以外でのシーカヤックの海旅は、チームワークの世界に変化する・・・
井上好司: チームワークの世界にはとても興味が向く。新しい世界への展開とでも言っていいような。
原 康司: プロであろうがアマチュアであろうが海旅人になった後のビジョンをいかに見ることができるか、実践することができるか、それが横断隊の意義。
海から無償で得たものをいかに世の中に還元できるかでしょうね。
井上好司: とりあえず僕の周りの山屋に伝えたくて…
ところがなかなか伝わらないジレンマがあるのです。もっと深めないと…
原 康司: 山を目指す人はいわゆるサミット、オンリーワンを目指す自己完結思考。対して海は陸を目指す、いわゆる人の生活や文化が根づく場所。世俗と無縁では漕ぐことが難しいのも瀬戸内の海の特徴。海は人と人を繋げ国と国を繋げる。そうビジョンが広がるのも海旅でしょうか。
どちらも自然であることには変わりないのですから伝わる人には伝わるのでしょうね。井上さんの文章から気づかされることも多いです。
井上好司: 海と山では目指す場所に違いがあるということに初めて気付きました。
考えたことがなかった。ありがとうございます。
内田正洋: 海旅人のプロ・・・ということになるの。旅は「賜ぶ」であるからして。
原 康司: なるほどー。海旅人のプロ、、、そうですね!
井上好司: 海旅人のプロは海旅人の専門家、ですね。
平田 毅: とても面白かったです。ほんとは海に対してプロもアマもなく、その人の言ってることが本物かにせものか、深いか浅いか、面白いかおもろないか、が肝心なんだと思います。プロが、とかいうとえてして資格などの話に繋がり、中身そのものは形骸化してその分野だけの内輪ノリになりがち。そういうのもまた必要な事だけど、井上さんみたいな立場の人ももっと増えればいいですね。プロと言っても、テクニック的にはああ確かにこの人プロだなあと感心するけど、見識とか感性とかが浅いなあ、なんか貧しいなあ、って人もいっぱいいますから。逆にプロじゃない人がそこらへんを凌駕してしまうといいと思います。そういう意味でもこのレポート面白いですよ。
内田正洋: シーカヤッキングは海旅と翻訳する。英語でシーカヤッキングというのは、他に言葉がないからである。シーカヤックで旅をするという行為に適切な翻訳が海旅なのである。だからして、シーカヤッカーは、海旅人と翻訳する・・・シーカヤックガイドは、海旅人のプロだわな・・・
井上好司: うーん、内田さんがプロという言葉を使うとどうも僕はよくわからなくなる。
三代目や平田さんのプロであろうがアマであろうが関係ないと言った後のコメントは実にすっきり僕の胸に収まるのに。
シーカヤックのプロであるガイドの中にもテクニックは確かにプロでも感性・見識の浅い人もいる。つまり良質の海旅人ではない人もいる、ってことでしょう。「海旅人のプロ」ではなくて「海旅人」でいいように思う。
内田さんとは見てるものが違うんだろうな。そんな気がする。
平田 毅: 修験道でいう先達とか、武芸などでいう師範とかの感じが、プロってことなんじゃないですかね。自分の領域を超えて他者に伝えたり、教えたり、表現したりして影響力を持つ人。で、アマは妙好人みたいな存在。旅することそのものの中身はプロもアマも変わらんけど役割が違うというか。
井上好司: 「プロと言っても、テクニック的にはああ確かにこの人プロだなあと感心するけど、見識とか感性とかが浅いなあ、なんか貧しいなあ、って人もいっぱいいますから」                                 このことは山屋の世界にピッタリ当てはまりますね。体力・技量を磨いてより高みを目指す。高い所に達した者ほど評価される。個々人もそういう意味での高みを目指すことに面白みを覚える。でも山に入って何も感じていない。感じていないから当然何も考えていない。                             いい例が、赤石山脈が大好きという人にリニアをどう思うかと質問しても何も答えが返ってこない。大好きだと言ってる赤石岳のどてっ腹にトンネル掘るんだよと言ってもピンとこない。たぶんそれで赤石山脈やその山麓の自然のサイクルがどう変化することになるかイメージできないんだろうな。これがまさしく「都会感覚のままのアウトドア」。どう変化するかはわからなくても、「それは拙いことになる」というくらいは感じて欲しいと思うのです。
平田 毅: そういう風潮をいずれ一掃したいものですね。
井上好司: 塚本さん、この辺りの話をクライマーである塚本さんに聞いてみたいと思っています。僕の周りの山屋もクライマーにもこの辺の話ができる人がいないのです。
塚本 健: 自分の場合は、山と岩と向き合いながらも、グレード的なものには、「たぶん満足できない」、「それやない」みたいなのを感じながら、クライミングに向き合ってきました。決定的だったのは、ミッドナイトライトニングを登ったときでしょうか。
完登の扉を開けたときには、身体中を通り抜けた万物に対する感謝の念しかなかったのですが、すぐに「さあ、次の扉はお主次第だ」と言われた感じがしました。
ようやく、今、自分の発動の立ち位置に戻り、ここ辺野古や高江に来ています。機会をつくって、春までには大鹿村にも行く予定です。
井上好司: 大鹿村には僕も行ってみたいです。
内田正洋: 行きなさい。ボブがいる・・・

*1「シーカヤック教書」P118 カヤック隊の行動
(前略)
カヤック隊は、それぞれがシーカヤックの船長でもあり、船長の集まりです。初心者であっても漕ぎ手はそのシーカヤックの船長でもあるわけです。そのシーカヤックに責任を持つのが船長であり、初めてシーカヤックに乗った場合でも、そのシーカヤックの動きは船長によって決まります。カヤック隊というのは船団や艦隊なのです。船団の一翼を担う船の船長だという自覚が、最初から求められます。初めてシーカヤックを漕ぐ人であっても、その事実に変わりはありません。
(後略)


3、「4日目」

 今次の参加者は11名だったから3回目の僕にもリーダーが回ってくるのは集合した日から予想していた。誰もがそうだろうと思うが1日目の予習はしていた。ポイントは備讃瀬戸の転流時刻。1315から引き始める。それまで追潮、追風。とはいえ僕は1315までに瀬戸大橋にたどり着くことは全く無理だと思っていた。大槌島まで約25km、それから約10km。0700に出発しても休憩を取りながら35kmを6時間で行けるとは思いもつかず、1315から逆潮が流れ始めて徐々に流れが速くなるのだろうが、備讃瀬戸を逆潮の中手漕ぎで漕ぎ進めなくなるまでどの程度時間の余裕があるのだろうか?1400頃までならまだ逆潮の中前進できるだろうか?そんなことを考えていた。だから昼前に備讃瀬戸を通過できた事に驚いた。というより大槌島への西進中に時速10km出ているらしいと聞いた時点でそんなことがあり得るんだとびっくりしていた。この日の漕行は僕にとって未知の体験だった。
 瀬戸内を横断するにあたって核心部と言える海域が2か所ある。芸予諸島のうち一般に「しまなみ海道」と呼ばれる海域と忽那諸島。多数の島が接近して点在していて潮流の速くなる瀬戸の通過を余儀なくされる。今次で言えば3日目と5日目。ここに新米リーダーを充てることはまずない。それ以外の所ならまあ行き当たりばったりでも何とかなるだろうと思っていた。
 とはいえリーダーの役割を与えられた4日目の朝はやはり緊張していた。3日目のビバーク地は大三島の南岸ほぼ中央付近。前日夜のFBのコメントに僕は「4日目の明日は東北東の風強く、曇り、8時頃から上げ潮。追い風、追い波、向い潮。さあ、倉橋に渡れるか?とりあえず島々の南を岸沿いに。後は野となれ山となれ〜」と書いている。緊張しつつも開き直っているというか冷静さを保とうと努めていたのだと思う。とにかく海に出たら緊張感から解放されて肝が据わるはずだ。早く海に出たいと思っていた。約40km先、芸予諸島の西南端に位置する倉橋島の亀ヶ首まで隊を運ぶことができたら最低限仕事をしたことになると思ってた。ただ午後から東北東の風がさらに強くなる予報だった。そうなれば倉橋島への最後の横断が難しくなる。そんなことを考えながら0630にブリーフィングを行い4日目をスタートさせた。
 山を歩く時もそうだがパーティの先頭に立つと無意識にペースが速くなる。その為意識的にゆっくりと漕ぎ進めた。ゆっくり漕いでいるつもりなのだが隊がどうしても縦長になる。どうも僕のペースが速いらしい。こんなに意識してゆっくり漕いでいるのにおかしい。夏から秋にかけてあまり漕いでいなかったので1~2日目はかなりしんどかったが、4日目になって身体が漕ぎに慣れてきたのかもしれない。単に先頭を漕いでいるからでは説明できない不思議な感覚だった。
 島々の南岸を約25km漕いで1135に上蒲苅島の県民の浜で昼食休憩。1215からブリーフィングをしたいとみんなに伝えた。ここから先をどうするか?自分なりの考えはあったがみんなのアドバイスが欲しかった。僕はこのままもう数キロ岸沿いに西進してから風を見て、上黒島経由で倉橋へ渡るか風がより強くなっていれば倉橋は諦めてさらに西進して下蒲刈島へ向かうかを決めようと思っていた。島から島に渡る時に感じる午前中の風は7~8m程度だったと思う。ところが直接上黒島に向かえばいいと隊長が言う。岸沿いだと風裏なので風の様子がわからない。風の変化を感じる為に沖に出ようというのがその理由だった。風を避けられるうちはできるだけ風裏を行こうと考える僕にはない発想だったが納得できた。直接上黒島に向かい島の付近で風の様子を見てその先どうするかを決める事でみんなも同意した。
 上黒島へ向かう間も縦長になる傾向にあったが後方の様子が午前中とは少し違っていることに気付いていた。最後尾に1艇遅れているのは三澤隊士の場合が多かったがその前のベテラン隊士たちは平気な顔をしている。三澤さんが横断隊広報部長として動画の撮影をしているんだという事は僕の視力でははっきり見えなかったが容易に想像ができた。そういうことなら多少距離が空いても大丈夫、というか危険な距離が空く前に三澤さん自ら距離を詰めて来るだろう。
 1時間以上漕いで完全に風裏から脱した域に至っても風は強くなっていない。というより少し弱まった気がする。これなら倉橋に渡れそうだ。何とか渡りたいという気持ちとは別に冷静に渡れるという判断ができるようになった頃、僕はこの先上黒島には向かわずここから直接倉橋の亀ヶ首に向けて転進すると隊に告げた。その判断に至った理由を説明をせずに。何やら後ろでベテラン隊士が言っている。それも一人ではない。そうなると途端に弱くなる1年生リーダー。先程の転進の英断もどこへやら、説明もせず決断も揺らぎ、すんまへーん、当初の予定通り上黒島へ向かうことに戻してしまった。
 結論から言えばあの転進のタイミングはよかったと思う。ソロ漕ぎなら上出来だったと後で一人反省するときにもそう評価できたはずだ。ところがチームではそうではないのだ。みんなを納得させなければならないという事を思い知らされた。あらかじめ予定を告げているのだからそれを変更する場合はその結論に至った理由を説明し納得させることがリーダーに求められる。そんなことを思い知らされる出来事だった。またあの時点で説明し納得させられなかったのは僕の決断が決して強いものではなくかなりあやふやな決断だったのだろうと後にして思うのだ。ソロだったらそのあやふやさに気付かないで結果オーライという事になっていたのかもしれない。
 その後上黒島付近で海上ブリーフィングの後倉橋に向かう事に決定、16時過ぎになんとか亀ヶ首に到着できた。ぎりぎりなんとか最低限の仕事ができたと安堵した。
 リーダーだったこの日の事を事細かに書こうとすればまだまだたくさんあっておそらくこの5倍くらいのページが必要になるだろう。それでは切りがないので課題一つとお礼を書いてこの章を終える事にする。
 潮に流されていてもそれが分からない。理屈ではどうすれば判断できるかわかったが、感覚的に分からない。これは僕にとって結構やっかいな課題になりそう。
 僕のリーダーにサブとして付いてくれた島津隊士にお礼を言いたい。僕にとっては全面的に頼り切る存在ではなく、心理的には自由でいられて、でも時に的確なアドバイスをくれた。本当はきっとリーダーをしたかっただろうに… ゆーちゃん、ありがとう。

おわりに、

 6日目、今次最大の核心部の一つだったと言ってもいい北からの強風の中の屋代島から本州への横断を終え、上関の横断を控えたつかの間の風裏を漕いでいた頃はちょうど昼飯前の時間帯だった。昼はほとんどいつも袋入りラーメンを食べていたがその日は早ゆでパスタにしようなどと緊張感を解いて考えながら風裏を漕いでいた。昼休憩と言ってもいつもたっぷり時間が取れる訳ではないので早く作って早く食べ終える必要がある。コッフェルやガス・パスタなどが前や後ろのハッチのどこにあって浜に上がってからどう動くのが最も効率的かその順番を頭の中でシミュレーションしながら漕いでいたら、前方の海中から黒い物体が浮き上がってきて僕の艇の底を押し上げた。なんのことはない、前方不注意で隠れ岩に乗り上げたのだ。強くはなかったが後方からの風と波があったので結構やばい状況に陥った。まあその後の顛末は省くが、命に別条がない程度の失敗をいろいろしでかした。小さな失敗も旅の内と考えるか、小さいリスクを一つ一つ潰していく旅をするかは人それぞれの個性かも知れないが失敗は少ない方がいいのは間違いない。次回までの課題としよう。
 こんなレポートで横断隊に参加してみたいと思っている人の最後の一押しの役目ができるかどうか甚だ怪しいが、僕の周りで2名の方が小さく初参加表明しているようだ。その方たちにただただパドリングを続ける7日間とはならないように横断隊の原点ともいうべき「第一次瀬戸内カヤック横断隊結成の趣意書」の抜粋を贈らせて頂いてレポートを終えたいと思う。


*「第一次瀬戸内カヤック横断隊結成の趣意書」抜粋
「日本は、本来のカヤック文化を育んできた人々とほとんど同じ民族が暮らす国家であり、世界でも非常に稀な、成功したモンゴロイドの島嶼国家で、さらには1300年も続く世界最古の国家です。
この日本において、ほとんど唯一の内海、それが瀬戸内海です。この海でカヤックの普及が行われ始めたのは最近のことですが、カヤック自体はこの海よりさらに過酷な環境で育まれてきた舟です。したがって、極北の外洋におけるカヤックの限界性能をこの海で試そうにもそれは不可能なことでしょう。カヤックはこの海には過剰な道具なのかもしれません。
しかし、だからこそ、この海でカヤックをやることの意義は大きいのです。海からまったく離れてしまっている多くの現代日本人。自分たちが島の人間であることさえ、ほとんど忘却の彼方にあり、海流と潮流の違いさえ分かりません。数千年と続いている独自の海洋文化を自覚することもなく、ただ「サシミ」を食べるだけの日本人がここにいます。
世界中の漁師が日本人のために漁をし、養殖さえ行なってくれています。しかし、これだけ深い海洋文化は、世界に類を見ないのです。これだけ海を慈しむ文化、海に感謝してきた文化はないといっていいのです。その価値観を思い出す手段、それが海のカヤックです。
海のカヤックは、現代の日本人が忘れ去った、しかしながら、もっ とも大切な価値観を思い出させる道具であることは間違いありません。」

2016第十四次瀬戸内カヤック横断隊レポート 糸井 孔帥

第14次瀬戸内カヤック横断隊レポート 糸井 孔帥



2016年11月18日から24日まで行われた「第14次瀬戸内カヤック横断隊」に参加した。前回参加した「第9次瀬戸内カヤック横断隊」から4年半の年月が経とうとしていた。“自ら成長できたのか”を見つめる学びの場として、もう1度瀬戸内へと立ち返った今回の横断隊は、失敗と成長の7日間となった。


i. 横断隊士として瀬戸内への帰還

 「瀬戸内カヤック横断隊」という言葉は、私に苦く辛い経験を想い出させる。前回(2012年3月の第9次)参加の際、中度の低体温症に陥り、他の隊士のサポートにより九死に一生を得た経験があるからだ。
 当時の隊長で、自らのカヤックの先生でもある内田正洋氏に依存した状態での参加だったため、準備の甘さがあった。その結果として、他の隊士に迷惑をかけてしまった自分を恥じた。そして、4年半もの間「瀬戸内カヤック横断隊」から遠のいてしまったのだ。
 その間も、他の隊士たちが「関東の隊士」として私に接してくれることに有難さを感じ、機会がある度に瀬戸内の隊士たちの元を訪れ、シーカヤックを通し瀬戸内を見つめてきた。また、「瀬戸内カヤック横断隊」に参加後、関東地方の横浜港を拠点にして、シーカヤックのインストラクターやSUPのガイドなどを生業にするようになり、現在に至る。さらに、機会がある度に日本各地の水辺で漕ぎ、経験も積んできた。このことが、何年もためらい続けてきた「瀬戸内カヤック横断隊」への再挑戦という決断につながった。
 この「第14次瀬戸内カヤック横断隊」に参加することにしたもう1つの要因は、20代最後という人生の節目だったからである。
 何かを決心するには、年齢の節目というのは極めて有効なのだ。

こうして、私は、「第14次瀬戸内カヤック横断隊」最初の離陸地点である小豆島(しょうどしま)へと向かうこととなった。
 瀬戸内にて毎度お世話になっている高松市の植村泰久隊士に見送られながら、岡山県宇野港へと到着。今回、白石島の原田茂隊士から私はカヤックを借りるため、宇野港にて原田隊士と落ち合うことになっていた。そして、関東から不眠不休で現地入りした三澤昌樹隊士と共に宇野の海岸から小豆島へと漕いで行く。
 その前夜、懐かしい顔ぶれにお酒も進み、私は二日酔いの状態でカヤックへの荷物パッキングすることとなった。カヤックの前後にある荷室に、荷物を上手く入れていくのであるが、頭が回らず全く捗らない。
 そのため、時間はかかったものの、なんとか無事にパッキングを終え東へと向かう。小豆島までは約20kmの航程だ。何度かこの海を漕いだ三澤隊士と海図を睨みながら、絶妙な追い潮に押され夕刻前には集合場所である小豆島南東のヘルシービーチへと到着した。
 我々2人が海から到着する。それを浜辺で、井上好司隊士と島津裕子隊士が出迎えてくれた。普段は空荷でカヤックを漕ぐことが多く、1人でも軽々とカヤックを担ぎあげることができるが、前後の荷室に荷物を満載したカヤックを1人で運搬することは困難である。着陸後、すぐにカヤックを数人で運搬することが、横断隊での大切な作法となる。
 上陸して初めてここで「第14次瀬戸内カヤック横断隊」に参加する隊士たちが明らかになってくる。陸路から海路からと徐々に隊士が集まり、今回は合計11名という少人数の瀬戸内カヤック横断隊となることが分かった。
 少し欠けた月の下、焚火を囲みながら隊士たちの自己紹介が始まった。私は人見知りの性格に加えて二日酔いのため、せっかくの前夜の宴に積極的に参加できなかった。この日、初めて会う太田裕治隊士から「夜の横断隊」交流も大切であるというアドバイスをもらい、翌日からの旅に備えた。


ii. 1日目~瀬戸内の洗礼再び~

 この7日間の海旅は、すべて異なる天候であった。11月中旬から下旬にかけてが、ちょうど季節の変わり目だからか、様々な瀬戸内を垣間見ることができた。

 四国島から昇る朝日に照らされながら1日目が始まった。
 7日間で最も潮流が速かったこの日は、潮に乗って瀬戸大橋を越え、笠岡諸島南域の小島まで漕ぎ進む約50kmの航程。瀬戸内のど真ん中をほとんど針路修正なく直線的に進む航程であった。1日目に隊を引っ張るリーダーを務めた、西原啓治隊士の性分が現れているようだ。関東地方周辺の海ではあまり体感できない潮流の速さに対し、私は力み過ぎて早速手にマメができてしまった。ぜんぜん瀬戸内に適応できていない。
 その航程で、私が前回の参加で低体温症を発症した自分の中では鬼門ともいうべき「テイタイオンの島」こと大槌島(おおつちじま)を越えると、瀬戸大橋の全体を見渡すことができるようになった。浅瀬となるこの海域では、潮の上を吹く風で叩き起こされる追い波が発生しやすい。追い波が、私のカヤックのコクピット内へと海水を注ぎこむ。どうやら、コクピットへの海水を防ぐはずのスプレースカートが、追い波の水圧に耐え切れないようだ。
 借りたカヤック一式であるが、装備のせいにはできない。自分でなんとかせねばならない。それが「瀬戸内カヤック横断隊」の考え方であり、シーカヤッカーの基本的な姿勢でもある。
 満水状態の舟のバランスを保ちながら排水する、その繰り返し。三澤隊士のカヤックと海上で筏を組ませてもらい可能な限り排水するが、いつまでもそんなことをしていて追い潮に乗った隊の足手まといになるわけにはいかない。
 原康司隊長に相談したところ、「後ろから追い抜いて行く波の進入角度を見ながら、腰を振ってコクピットに浸水させない」という手法を教えてもらった。この対策の実行もなかなか興味深かったが、波の角度や周期ばかり気にしていると視野が狭くなり疲労が重なる。その結果、波を見誤り浸水することも何度か発生した。この方法は、あくまで一時しのぎの応急処置である。
 そこまで荒れた海でなかったことも救いであったが、前回と大きく異なるのはウェアの準備が万端であったということだ。当たり前ではあるが前回の教訓は生かされている。
 もう1つ前回の教訓を生かしたことは、行動食の「飴玉」を厳選して持参してきたことだ。
 前回、休憩中に疲労困憊の私に、植村隊士が飴を幾つか分けてくれた。飴はそれぞれ包装されていて、PFD(ライフジャケット)のポケットに幾つか入れておけばベトベトせずに保存できる。休憩が終わり出発する前にポケットから2つ飴玉を取り出し口の中に放り込む。そして、漕ぎながらゆっくり飴を口の中で味わうのだ。そうすると、ゆっくりとエネルギーを吸収できる。その教えを元に、旅のお供に飴玉をよく持参してきた。その中で、私がオススメし今回も持参した飴玉は、舐め始めて少し経過すると食感が変化する「レモンスカッシュキャンディ」(不二家)である。かみ砕くとしゅわしゅわ口の中に広がる食感がたまらず、海の上でちょっと幸せな気分が味わえる。そのまま唇を舐めると、塩分が追加される。顔に飛んでくる波しぶきや潮風が乾き、顔全体が塩まみれ……。それを飴と共に少し舐め、塩分も摂取するのだ。
 夕刻、無人島……対岸に四国島の山々をはっきりと望む小島に着陸。夕食の際は、なるべく他の隊士と時間を共有し、持ち物や装備に関する情報交換を密にした。
 やはり、何事においても、コミュニケーションしないことには、隊全体がひとつとなり前に進むことはできない。この晩は雨に中断させられたが、この夜の時間を大切にしていこうと思った。その思いにとらわれたことが後に1つの失敗を生むのであるが、この時は露程にも思わなかった。


iii. 2日目~カヤックへの欲の載せ方~

 2日目は備後灘を西へ進む。
 笠岡諸島から水平線に霞む対岸の芸予諸島を望むと、〈環備後灘島嶼群(かんびんごなだとうしょぐん)〉とでもいうべき世界を理解できる。この海を反時計回りに芸予諸島北部の横島へと至る40kmの航程は、瀬戸内上空に大きく横たわる暗雲を眺めながらのスタートとなった。
 瀬戸内海は、東は紀伊水道、西は豊後水道の2か所から、潮汐が周期的に流出入する大きな内海である。そのちょうど真ん中を通る航程のため、潮の分水嶺がある。前線通過後、果てしなく広がる低い雲を眺めながら、パドルで分水嶺を探り漕ぐ。パドルで捉える水が軽ければ潮に押され、重ければ潮が逆となっている。その重さが切り替わる場所こそが分水嶺のはずだ。ただ、そのポイントを探り当てるのはなかなかに難しい。
 そうしていると、中世より良港と名高い鞆(とも)が近づいてきた。
 私は栃木県出身である。その地域は違うが、生まれ育った本州島に48時間ぶりに近づいたからだろうか。あるいは、この前月に鞆を村上泰弘隊士にガイドしてもらいながら漕いだからか、安堵感を覚える。
 その本州島を近くに感じながら、海沿いに建てられた阿伏兎(あぶと)観音の前を経由し横島へ着陸。
 その航程で強い向かい風に長時間さらされて、体温を少し奪われたためか、上陸した途端に疲労の蓄積で眠気が襲ってきた。眠くはあったが、流木集め、火起し、調理という上陸してからの他の隊士との交流時間。それは楽しいひとときであった。
 ここで、1つ不思議に思ったことがある。
 どんな方法で、カヤックの荷室にあんな大量のビールが隠されているのか、だ。私は大量のビールを荷室に入れるという選択を最初から放棄し、代わりにカヤックの前後先端部分の細くなった荷室の中に焼酎のボトルを入れてきた。もちろん、漕ぎ終わった身体は、爽快感があるビールのほうを求めているということは知っていた。ただ、積荷には限度があるから仕方がない。そのことで私が肩を落としていると、原隊長が1缶分けてくれた。有難い。
 この小さなカヤックに、海を旅していくにあたり、生きていくために必要最低限の荷物を載せ、さらに自分の“欲”も乗せていくというミニマリズムが浸透すれば、社会はもう少し気楽になるのだろう、といつの日からか思っているのだが、どうしたら30缶から40缶のビールが入るのだろうか。他の隊士のカヤックを見ると、どうやら、日常的に使用している装備や旅で必要な食材を厳選し、パッキングした結果生まれる隙間にビールを埋めているようだ。ここで選択するビールは、背が高い500mlビール缶ではなく350mlビール缶。狭い荷室の中では350ml缶の高さがちょうどよい。それらを漕いでいる最中に重量のバランスが均等になるよう、前後の荷室均等に潜り込ませているのだ。欲を乗せるのも技術が必要だ、と学んだ。


iv. 3日目~有難さは食と雨と隊士の存在~

 3日目の朝。離陸までの準備はもう手慣れたものだ。
 前夜のうちに、2つの調理も済ませてあった。
 1つはおにぎり。瀬戸内へと旅立つ前に、簡単にご飯を炊けると名高い「不思議なめし袋」(UNIFLAME社)を購入していた。紙素材で作られた手のひらサイズの袋に米を入れ15分ほど鍋で煮ると、飯盒(はんごう)や炊飯器などで炊いたようにご飯ができる。この防災用に重宝されているという袋を使用し、前夜に3食分のご飯を炊きおにぎりにしておいた。納豆と合わせて朝食に、ラーメンの残り汁と合わせて昼食にできる。
 もう1つは焼き芋だ。夕食時、他の隊士たちと談笑している間に、さつま芋を焚火の片隅に放り込み焼き芋が完成した。焼き芋は、寝る前に空鍋に入れて冷まし、翌朝カヤックのコクピット前ポケットに入れ、休憩中に頬張れば朝食だけではなく行動食にもなる。
 こうして朝の準備を簡略化することに慣れてきたため、出発まで少し余裕が出てきた。
 高積雲から漏れ出す陽を浴びて進む先は、通称しまなみ海道を有する芸予諸島の中央。
 この海最大の特徴は、潮流の速さ。ここは狭い瀬戸が入り組み、水道のホースをつまんだように狭い瀬戸から流出入を繰り返す潮の流れがある。そして、その流れは1日に2回発生する転流時での通り抜けが、シーカヤックでは現実的なのだ。無理をすれば、うごめく潮流に足元すくわれ転覆するかもしれない。ただそれよりも怖いことは、私がこの海以西を漕いだことがないということ。人は、自分がイメージできないことを何よりも恐れるものだ。
 “イメージできないこと”は緊張とそれによる疲れをもたらした。しかし、難所「舟折瀬戸(ふなおれせと)」を前にして緊張を払拭できたのは、他の隊士の存在と通り雨のおかげだ。
 長い湾の横断が続き、私は疲労で睡魔に襲われていた。そんな中、後方からリズムカルな声が聞こえてきた。村上隊士と工藤拓郎隊士が「えっさ~ほいさ~よいさ~こらさ~」とまるで餅つきの掛け声のようにリズムを取りながら漕ぎ始めた。自然と笑いが込み上げ心が和む。そのリズムに合わせて漕ぐと、身体が徐々に楽になってきた。
 伯方島(はかたじま)で強い通り雨がやってきた。とっさに私は無意識に帽子を脱いでいた。天を仰いで、髪をガシャガシャと雨で洗い流す。3日ぶりの真水……脂も塩も疲れも流すのだ。
 リズミカルな掛け声や雨で髪を洗う行為も、自然を前にして無意識に始めた行為であった。現代の日本においては滑稽に見える行為かもしれない。ただ、とても本能的でシンプルな行為は、自然の中では清々しく気持ちがいい。
 こうして、「舟折瀬戸」を前にして心身共にリラックスした状態で漕ぐができた。当日のリーダーである楠大和隊士が「学びの場」としての横断隊を尊重すべく、転流前で未だ逆流状態にも関わらず、瀬戸を学ぶために「舟折瀬戸」へと進む。時に流れが穏やかな瀞(とろ)を探し休憩しながら、時に小さな渦でクルクル回る。そして緩急をつけ一気に次の瀞へと抜けるという航程を非常に面白く感じることができた。無事にしまなみ海道が通る伯方橋を抜けると、3日目の着陸地点である大三島(おおみしま)が見えてきた。私は安堵したのか、またもや眠気に襲われ、まどろみの中を漕ぎ切った。
 「瀬戸内カヤック横断隊」は、海上の隊士だけで行われるものではない。今回は事情により参加できなかったが、瀬戸内各地で見守り、陸路からサポートに来てくれる隊士も多くいる。この日、38kmの航程の先に待っていたものは、陸路から駆け付けた森大介隊士による肉野菜がたっぷり入ったスープであった。この前日にもいただいたスープであったが、栄養たっぷりのスープは身も心も解してくれる。海だけでなく陸から見守ってくれる隊士の存在にも、有難みを感じる1日であった。


v. 4日目~ミカンとパイナップル~

 4日目は、大三島から倉橋島までの41kmの航程。追い風に身を委ね、島から島へと飛行するように漕ぐ。
有難いことに裕治隊士から、水圧にも強いネオプレン素材のスプレースカートを借りることができた。カヤックにジャストサイズのスプレースカートを装着したことで、追い風で生み出される波に乗りながら漕ぐことが容易にできるようになったのだ。装備状況と海の状況によっては途中離脱も検討しなければならないと思っていたため、裕治隊士には感謝してもしきれない。
 こうしてストレスなく波の中でも漕ぐことができるようになったため、4日目から会話をしながら漕ぐことができた。
 その会話で分かったことは、「追い風が好き」か「向かい風が好き」か、隊士によって好みが分かれるということである。強い追い風で波乗りしながら進むことに興奮する者と、向かい風の中、延々と漕ぎ続け次の場所へと辿り着くのを好む者と……。この時に生み出された1つの答えは、普段漕ぐ海に慣れていった結果で、好みが分かれるということだ。私が普段漕いでいる海は、関東地方の都市運河や東京湾、そして伊豆諸島である。その海では、追い風とうねりに乗りながら長く漕ぐ機会が多いので、どうやら、私は追い風が性に合っているらしい。
 定期船の航路を避けながら島から島へと渡る航程の中で、ミカンの果樹園に目が留まる。島々の急斜面にはミカン畑が段々と連なり、橙色で美味しそうなミカンを見るたびに喉の渇きが生まれるのだ。
 休憩中、隊士たちを見ると、ミカンやりんごを頬張っていた。私もビタミンの補給も重要であると思い持参したものがあるが、それはパイナップルであった。ミカンやりんごと違い、パイナップルはナイフで切るなどひと手間必要であり、かつ量が多いので短い休憩時間で完食できない。さらに、パイナップルは旅の荷物としてはあまりにも大きく、荷物としてかさ張るので荷室の1番奥で眠らせておいた。そのため、上陸して他の荷物をすべて出さない限りパイナップルにはありつけないのだ。結局パイナップルは、5日目の昼食で食べることとなった。
 こうして、4日目の午前は、荷室の奥にて眠っているパイナップルの存在を想いながら、島々のミカン畑にヨダレを垂らして過ごすこととなった。行動食の飴玉で我慢しながら、上蒲苅島(かみかまかりじま)へと着陸。
 昼休憩の後、上蒲苅島から離陸し、倉橋島まで上黒島(かみくろしま)経由で一気に渡るという井上隊士の判断で約10kmの島渡りとなった。ただ、着陸目標地点である倉橋島の先端「亀ヶ首」の場所が、私には特定できない。数km先に霞む倉橋島の島影は見えているが、島影の濃さが同一の岬がいくつか重なり断定できないのだ。着陸先の目標が不明確で、かつ集団で海を漕ぐ場合は、カヤック前方に取り付けたコンパスを見ながら、目標針路を決め航行するのが最も上手くいく方法である。例えば、他隊士と目標針路が1°異なる状態で数km漕いでいると、徐々に隊との距離が離れてしまう。特に、愛媛県松山港から広島県呉港へ向かう貨客船が、高速で通り過ぎるような水域ならばなお危険であるわけだ。なにしろ、大きな船舶からは、海からの高さ1mにも満たないカヤックは視認することが難しい。そんな海ではカヤック隊も固まって航行する。小魚が捕食されないよう集団で動き大きな魚に見せるように……。そんな意識で、ここは自分で特定せずに隊の針路についていくことにした。


vi. 5日目~失態~

 4日目ともなると、心身共に隊士たちとの旅に慣れてくるものだ。徐々に隊士たちとも打ち解けることができ、隊士それぞれ、余った食材を持ち寄り共同で炊き込みご飯を作るまでになった。そして、夜は焚火の前での談笑がありお酒が進む。
 ただ、隊士たちと打ち解け楽しく過ごす時間を多く取った結果、5日目の朝、私は二日酔いで目覚めることとなる。
 連日集合時間の1時間半前に起床し、テントなどをカヤックにパッキングして朝食を取り、集合時間にブリーフィング後、離陸をするという流れで過ごしていた。しかし、この日は二日酔いのため準備作業が全くはかどらず、私のせいでブリーフィングおよび離陸を遅らせてしまった。
 実はこの5日目にも難所が控えていた。倉橋島から南下し海を渡ると、津和地島と怒和島との間に狭い瀬戸がある。ここを通航するには、潮汐の関係で通過時間に限りがあるのだ。当然、私はその瀬戸の情報を事前に他の隊士から聞いていた。同様の瀬戸「舟折瀬戸」を3日目に通航したわけであったが、私はこの全航程の最大難所は既に過ぎたと思っていた。「まさかそれ程の難所ではなかろうか」と軽視してしまったのだ。実際、5日目のこの瀬戸通過後に振り返ると、流れが発生し「水の段差」が生み出されていたのである。それは、まるで川の下流から上流を眺めるような高低差だ。それだけ、潮流が速いということだ。潮の力、恐ろしや……。
 海の情報を知っていたにも関わらず軽視してしまい、結果的に隊全体の出発を遅らせてしまったことは深く反省すべき点である。
 そして、その失態をしっかりと見ていた原隊長により、私は6日目のリーダーに指名された。それまで原隊長は、私が2回目の参加でも、初見の海域を任せるには不安であるということで、リーダーに指名しないことにしていたそうだが、「共に、瀬戸内に向き合う隊士の1人であるという責任を持ってほしい」という意味を込めて指名したのだ。
 どこかでリーダーを受け持つのだと覚悟を持って参加した「第14次瀬戸内カヤック横断隊」であった。しかし、まさかこの周防大島という全く初めての海で針路を取るというのは予想していなかったこともあり、なかなかのプレッシャーであった。
 5日目リーダーを務めた三澤隊士と、周防大島周辺が地元という角田浩太郎隊士に助けられ、パイナップルを食べながら、6日目の針路を決めていくことになった。5日目の昼食時に、ようやく荷室奥から出され、カットされたパイナップルの残りをタッパーに入れていた。この「パイナップル解禁」を、誰よりも待ち望んでいた三澤隊士とパイナップルを分けながら、海図を睨んだ。ここで、1つ大きな問題に突き当たることとなる。
 それは、最終着陸目標地点である祝島に6日目でゴールするか、7日目でゴールするか、という問題である。
 「瀬戸内カヤック横断隊」の目的は、7日間かけて瀬戸内と向き合い海を学ぶというものであり、スタート地点からゴール地点まで完漕するというものではない。では、7日間かけて祝島に到達としたときどうなるかと考える。7日目の天候が悪天であり、祝島前の海峡を渡ることができない可能性が高い。5日目夜に野営した周防大島南端の「牛ヶ首」から祝島まで距離にして42km。今回集った隊士たちならば、1日で漕ぎ切ることができる可能性は高い。それならば、私がリーダーを務める6日目で祝島まで漕ぎ切る。これが、現実的ではないかと確信し、6日目の朝を迎えることとなった。


vii. 6日目午前~リーダーとしての難航~

 6日目の朝、私はそれまでよりも早く起き、1人準備を始めた。
 祝島までの42kmは、西へと向かう航程。天候は、この6日間で最も悪かった。風向きは、北北西から北東へ変化することが予想される。
 海図を見る限り、周防大島から本州島、そして長島の上関(かみのせき)にかけてそれぞれ島の南部を通るため、上手くいけば、島を壁にして風を遮ることができるかもしれない。ただ、注意すべきは周防大島から本州島までの海峡横断と、長島から祝島にかけての海峡横断である。なぜなら、ここは、進行方向左からの強風が直撃する中での横断となるからだ。
 その中で、周防大島から本州島を経由し、祝島が対岸に見える上関の田ノ浦までの航程が大半を占める。しかし、海況によっては、田ノ浦から4km先に見える祝島まで渡ることができないケースがある、ということだ。「まずは、田ノ浦まで進んでみよう」と私は思い、田ノ浦までの航程を3航程に分け針路を考えた。
 つまり、周防大島南岸を通り海峡横断までの1航程目、本州島まで海峡横断し昼休憩場所へ着陸する2航程目、そして本州島から長島にかけて上関市南岸を西へと進み田ノ浦へ着陸する3航程目に分けて6日目を捉えてみた。航程全部を1つとみなすと大きな問題であるが、航程を分割することで問題対処が容易になる。
以上の状況を考えながら、野営地を離陸する。南に見える沖家室島(おきかむろじま)の彼方から雲の隙間を縫って朝の気配を感じ、6日目が始まった。

 私はリーダーであるが、なにぶん初めての海を漕ぐため、その海に詳しい角田隊士に頼みサポート役として隣についてもらった。私は大声を出すと声帯が潰れるからか、遠くまで声が通らないことが悩みだ。一方、角田隊士は声が海の上でもよく通る。うらやましいことである。彼のように遠くまで通る声の持ち主が隣にいるだけで、全体に指示が通りやすいという安心感もあった。
 前夜のうちに角田隊士に聞いてみたところ、周防大島と本州島の間の海峡も潮の転流時刻に影響を受ける場所であるということだ。つまり、周防大島沖をゆっくり漕いでいると、潮の流れが逆になり、本州島までの横断が困難になる可能性が高い。よって、可能な限り最短距離を通ることで、途中の湾の入り口を一直線に横断しながら、無事に本州島が見える周防大島の法師崎(ほうしざき)まで順行することができた。隊全体の意思が「前へ前へ」と伝わってくるからだろうか。航行速度を速く感じた。裕治隊士曰く、隊後方から先陣のリーダーへと気を送る「パドルかめはめ波」というらしい。
 この航程の中で、周防大島の山々の北側には暗雲立ち込め、山々の隙間からは強風が漏れ出していたのを悪天候の到来かと私は嫌らしく感じていた。
 実際、法師崎にて休憩を取ってみると、その場は周防大島に風が遮られ穏やかに感じるのだが、目の前の海峡中央を見ると、吹き降ろす風がそのまま波へと転化しているのがよく見える。この横断は、厳しいものとなることが予想された。
 海峡の中央南には下荷内島(しもにないしま)がある。まずはその島を目安に横断を始めてみると、予想したよりも右後方からの風が強い。真後ろからの追い風で上手く渡り切ろうという私の思惑は一旦白紙に戻し、下荷内島まで横断する。
 そして、次は本州島までの横断である。ここは船舶の往来があるので要注意。対岸に一番高くそびえる皇座山(おうざさん)を目標にすることで、海峡の最短距離を横断できる。その計画で横断を開始したが、途中から前述した風向きにより、徐々に隊が南へと流され始め、風波により隊はバラバラになりつつあった。
 ここで私は下策を取ってしまった。隊が徐々に南へと流れていく中、最短距離での横断を諦め、風に流されながら本州島へと渡りつこうと考えたのだ。ところが、皇座山という絶対的針路を失ったため、隊の分裂を悪化させてしまったのだ。運よく船舶が通航しなかったからよかったが、航路横断で最短距離を狙わない失敗をその夜の反省会で指摘されたのは当然といったところ……。
 なんとか海峡横断を終えるも、昼休憩に適した浜辺を見つけるのに時間がかかった。風を遮ることができる穏やかな浜辺が見つからない。真っ先に原隊長に尋ねるのが早いが、可能な限りリーダーとして自分で判断したいという思いがあった。ただ、海図を見ながら次の浜を探るわけだが、リーダーがこのように不確かな時は、強風と波で疲れ切った隊の気力がさらに下がるのは明白であった。それを誰よりも感じ取ったため、最終的に私は原隊長に浜情報を確かめ、ようやく風裏となる浜辺にて昼休憩を取ることとなったのだ。


viii. 6日目午後~祝島着陸~

 6日目午後の航程で、横断隊は、その環境に合わせて隊の形を変化させながら、最終的に祝島へと到達した。この航程は、私にとって瞬時に判断を実行に移さねばならない時間となった。

 強風から隠れることができる岬の裏側で昼休憩を取りながら、私はこの先の海について原隊長に尋ねてみた。
 強風から隠れたといっても、岬の先端から徐々に漏れ出してくる風は徐々に風力を強めている状態だ。その風を肌で感じながら、原隊長は私の海図を指さした。そして、「長島まで渡った後、エスケープできる海岸はいくつかある」と言葉を始め、祝島が視程範囲に着く長島南端までの海を教えてくれた。
 ポイントは3つ。
 本州島から長島まで渡る狭い水路の奥が港であり、船舶の往来が頻繁にあるが見通しが悪いということ。
 長島南岸には3つの湾があり、それぞれ集落がある。場合によってはエスケープし野営できるということ。
 長島南端とその南に浮かぶ天田島(あまたじま)間の狭い水路は、岩場が多く浅いため、波が立ちやすいということ。

 その上で針路を検討し、午後のブリーフィングを開始。通常よりも長く休憩を取った横断隊は、心身共に回復し気力を高めて離陸した。
 私が最後に浜を発ったところ、私のカヤックに不調が起こった。どうやらカヤック後方に付いているラダー・舵が利かないようだ。もちろんラダーなしでも航行はできるが、リーダーとして隊を率いている以上、自分の中でのリスクは早めに取り除いておきたい。すぐ原隊長に報告相談、上陸し楠隊士にラダー修理をお願いした。これも本来自分で直すべきところであるが、工具や道具を持つ習慣が私にはなく、今回も持ち合わせていなかった。焦っていた私に対し、楠隊士は、プライヤーとドライバー、新たな“かしめ”を工具セットから取り出して私の横へ上陸した。「ラダーのワイヤーが“かしめ”から外れることは、比較的多いからな~」とカヤックの症状を話し、修理のポイントを私に分かりやすく気さくに説明してくれた。改めて準備に必要な知識と装備であると私は学ぶ機会となった。
 ただ、ラダーを自分で直すことができなかったという事案よりも、私はブリーフィングで隊の気力を高めたにも関わらず自分の事案で隊の航程を遅らせ気力を削いでしまったであろうことに申し訳なく感じた。リーダー自ら出鼻を挫いたのだ。
とはいっても、難所は目の前。
 本州島と長島間の狭い水路は船舶の航行量が多いが見通しが悪い。ここは角田隊士に全体を横1列にしてもらうよう頼んだ。私が航路の奥まで見通せる場所まで1人先を進み、合図をしたら隊全体で横断を始めるという方法だ。ここで実施した方法は、普段、私が船舶の往来も多く死角も多い横浜港にて航路横断の際に、合図を送る方法である。私は船舶の往来に問題がないと判断すると、瞬時にパドルを高く上げた。角田隊士が、横断の合図を受け一斉に航路横断。
 無事に航路横断を果たすと、3つの湾が待ち構えていた。湾口を抜けるのが最短距離であるが、逆向きに流れる潮流に引っかかるかもしれない。3つ湾があるので航路を選ぶ実験をするにはちょうどよい環境であった。
 1つ目の湾は、湾口を一直線に渡り少し潮流の影響を受けて疲労。2つ目の湾は、風から逃れるためにと考え、湾奥岸沿いを舐めるように航行した。この極端な私の航路選びに対し、原隊長からは「いい塩梅で漕ごうよ」というアドバイスが。「いい塩梅」というのは抽象的でシンプルな言葉だが、こんな海でこそ活きる言葉もあるのだと実感した。3つ目の湾は私なりの塩梅で通ってみることにした。

 我々は、途中、陸路からの応援が何度かあった。長島の切り立った崖沿いを通るように県道が通っている。そこから子供たちの声援が聞こえてきた。
 遠距離でよくカヤックを見つけたものだな、と感心していたところ、どうやら応援隊は原隊長のご家族や「瀬戸内カヤック横断隊」の活動を応援してくれている塚本健・真理夫妻のようだ。道理でカヤック隊の探索に慣れているわけだ。
長島の蒲井(かまい)港の突堤に駆けつけた応援隊に見送られた。その後、長島南端の水路へと突入していくわけだが、ここで私からある提案を行った。
 1列縦隊での水路突破である。
 この1番のメリットは、細い水路を通航するのに有効であるということだ。幅数百メートルの水路の中央は、潮流が進路とは逆に流れ、エスカレーターを逆走しているかのように前進できないと仮定し、島沿いを航行。一方、島沿いは浅瀬で岩場が多い上に、風向きと潮流が逆行しているため大波が立っていた。もし波に乗ったらコントロールを失い、岩場や前方の隊士に衝突する恐れがあった。私が先頭で漕ぎ、全体が通るラインを引くという作業。波の頂点で海面下に隠れている岩を探し、後ろへ「海上の伝言ゲーム」をしながら岩を避けるわけである。
 ここで1列縦隊のデメリットに気が付いた。それは、伝言が風でかき消されて最後尾まで到達しないということだ。ここは200km以上の航程を共に漕ぎ、6日間苦楽を共にしてきた隊士全員を信じるしかないわけだ。
 もう少しで難所の水路を抜けられる、そう思った瞬間に雲の隙間から日光が海面に強烈に射し込んだ。サングラスをしていても眩しさを感じる太陽の出現で、海面の情報が一気に読み取れなくなる。眩しくても海面から目を背けず、少ない情報を読み漕ぎ続けた。そして、ようやく隊全体が水路を抜けることができた。1kmにも満たない距離の水路が、これほどまでに長く感じるとは……。
 ふと目を上げると、それまで切り立った長島の海岸線で見えなかった景色が現れてきた。西の空が暗雲に覆われる中、雲の隙間から射しこむ日光がある島を照らしていた。その島こそ、最終着陸目標地点である祝島。息をのむような光景に見とれた。まるで時が止まったような壮大な風景……これ以上美しいものはなかった。私は、その光景に緊張の糸が切れそうになり思わず涙ぐんだ。ただ、未だ海上であり、リーダーの責務を全うしていない。深呼吸して心を落ち着かせ、無事祝島を対岸に眺める田ノ浦に上陸することができた。応援隊も陸路から田ノ浦に到着し、一息ついて祝島までの海峡を渡ることとなった。
 隊全員が離陸するのを確認し、私も離陸しようとカヤックに乗り海に浮かんだところで、あるアクシデントが起こった。応援隊の塚本氏の愛犬が、泳いで私のカヤックの上に乗ってきたのだ。数秒間、何が起こっているのか私は理解できなかった。このまま同乗して祝島まで行きたいのか……。バランスを保つのに必死な私。危うく転覆しそうになった。塚本氏に呼び戻され、最終的にカヤックから海へと戻り泳いで浜へと戻っていた。後にも先にも、あのアクシデントが最も危ういことであった。
 さて、無事に私が離陸を終えると、「逆V字型」のフォーメーションで海峡を渡り、祝島へ着陸することとなった。
 この「逆V字型」のフォーメーションは、裕治隊士の提案であった。
 毎年多くの隊士が参加する「瀬戸内カヤック横断隊」では、フォーメーションを組んで航行することが、最近の習慣となっていた。ところが、この14次では少人数での航行のためか、隊としてフォーメーションを組むというのは実施していなかった。そこで、「最後くらいフォーメーション組んで格好良く祝島へゴール決めようぜ」ということとなった。
 先頭は「第14次瀬戸内カヤック横断隊」紅一点の島津隊士。島津隊士を基点に男性隊士が左右の翼となって海峡を渡るというものだ。私は前後に隊士を控えた状態でリーダーを務めることとなった。
 祝島唯一の上陸可能地点を目指し「逆V字型」フォーメーションで漕ぐのだが、右後方からの強風に流され、南へと流されていった。それを阻止すべく私は針路を北方向へと変えていくのであるが、この残り3kmほどの海峡は船舶の往来が激しい。漁船ではなくタンカーのような巨大船が引っ切り無しに通航していた。海面まで高さがある船室からは足元のカヤックの存在は見えないので、カヤックから回避行動を取るというのが我々の取るべきマナーである。直近に回避すべきは右からやってきたタンカー。このまま針路変更をしないと、隊と衝突し大事故になる。一方、左からもタンカーがやってきた。ただ、こちらの回避行動を取るには、少し猶予がありそうだ。
 以上の条件を考え、私は隊の針路を右からやってきたタンカーの後方部分・艫(とも)へと向け、一時的に航行させた。タンカー通過後、すぐに左に見える祝島の港への転進。こうして左からのタンカーも回避することができた。判断は数秒で実行しないと、常に変化する海の状況や船舶の往来には適応できない。
 こうして、無事6日目で祝島へと到着することができた。
 緊張の糸が切れ眠気が襲ったので、その夜は誰よりも早く寝ようかと考えていたのだが、夜分まで裕治隊士と話していた。結局、最後に床に就くこととなった。


ix. 7日目~荒天の島での過ごし方~

 7日目は、予報通り大荒れの天気となった。ただ、7日間瀬戸内と向き合い学ぶことが主題であるのが「瀬戸内カヤック横断隊」である。早朝の浜辺に集まり海の状況を眺め、昼に中止の判断がなされた。海に出る代わりに島を散策し、その晩の反省会で隊士それぞれが学んだことを話す島談義が行われた。
 ただ、大荒れの海に出撃するという猛者はいるものだ。三澤隊士がカヤックで祝島を一周するという。「瀬戸内カヤック横断隊」に何度か参加している三澤隊士は、1日使って祝島を海から一周する機会は今までなかったそうである。私も誘ってもらったが、島内への興味があったので、その話を丁重に断った。こうして、三澤隊士ただ1人が、この「第14次瀬戸内カヤック横断隊」の7日間瀬戸内に漕ぎ出し向き合うという目的を達成することになった。


x. 7日目~祝島散策~

 三澤隊士が、荒れた海に出撃していた頃、私は祝島にあるという棚田を見るために塚本夫妻と隊士数名で島の裏手へとトレッキングをしていた。
 祝島という島は面白い島である。それは6日目、祝島への最後の海峡横断時に気が付いた。
 祝島には、それまで漕いできた瀬戸内の島々と大きく異なる点が存在する。スタート地点であった小豆島やその他野営してきた瀬戸内の島々は海から山までなだらかに稜線を描き、その途中に集落が点在しているのが特徴である。もちろん柑橘類の段々畑のように山から海への急斜面もあるわけだ。一方、この祝島は人を寄せ付けないような断崖絶壁の島である。お椀をひっくり返したような島は、まるで絶海の孤島のようだ。私がたまに訪れ、島内交流やガイドやカヤック遠征をしている伊豆諸島の島々と、よく似た地形である。
 その祝島は、島の北東側にのみ港があり集落がある。集落の中の道は迷路のごとく入り組み、私は7日目の夕方までに歩き回り、ようやく地形を把握することとなった。
ところで、私は初めて訪れた町や場所で無意識に最初に探すものがある。墓地の場所である。
 例えば、関東地方の利根川周辺では田畑の中に墓地が点在し、豪雨で周辺が冠水する際は共に水底へと沈む。瀬戸内の島々を見ると、主に太陽が“去く(ゆく)”方角である西側の小高い丘、もしくは海のすぐ側に固まっている。
 ところが、この祝島では海抜50m近くに固まっている。まずは墓地まで上がり、眠っているこの島のご先祖たちと同じ景色を眺めてみた。すると、6日目に漕いできた軌跡を眺めることができた。
 対岸に目を移すと、一際、穏やかで美しい浜が目に留まった。海図を思い返してみると、その浜は、6日目に祝島までの最後の横断を開始した田ノ浦であった。
 その田ノ浦と周辺海域に中国電力が原子力発電所を建設しようと埋め立ての申請を願い出て数十年が経つ。そして、祝島の人々はそれに反対している。この「瀬戸内カヤック横断隊」も祝島の人々と行動を共にしている。
 本来、最も美しい海を眺めながら島のご先祖たちと共に過ごすという意味を込めて、その墓地の場所となったのであろう。その目の前の海が埋め立てられ、無機質で将来性が乏しい建物が建つということは「ナンセンス」だと私は思う。
 墓地から海を眺め終え、山の中を行く一本道へと入っていく。竹林が生い茂っているが、各所に棚田があった名残が垣間見えた。1時間ほど歩き景色が開けると、道沿いに大きな壁が現れた。どうやらその壁が目当ての棚田のようだ。まるで城壁のようにそびえ立つ棚田の上に登ると、階下のミカン畑から声が聞こえてきた。ミカン畑の中に人がいるようだが、こちらからは視認できない。
 すると案内してくれた塚本健氏の愛犬が一目散にミカン畑に突入し道が示された。後から辿り着くと、ミカンの収穫をしている老夫婦に会うことができた。話を聞いてみると、どうやらその平(たいら)夫婦が棚田の所有者だそうだ。平氏の祖父が一から築いたという自慢の巨大な棚田であったが、もう平氏も加齢により棚田の上まで登り手入れをすることを止めるらしい。この途上に垣間見た竹林も、棚田を放棄した結果なのだ。収穫したてのミカンを頂戴しながら、長い時の流れに共に想いを馳せた。

 下山後は、昼食を島内の食堂で済ませて他の隊士と別れ、島内散策を1人行った。
 商店を見つけ飲み物を購入するため店内へ入る。店頭には女性がいて、週に数回本州島から船で通い、商店の手伝いをしているらしい。飲み物を持ち島内散策を開始するが、迷路のような道である。辻で島の人と会う度に道を聞き、挨拶や世間話をするという穏やかな時間を過ごした。祝島特有の「石積みの練塀」に囲まれた私道なのか公道なのか全く見分けがつかない道々をネコのように練り歩き、神社や山中の行者堂まで散策していると夕刻になってしまった。
 暗くなってしまった海沿いまで戻ると、喫茶店の明かりに吸い寄せられ入店した。「祝島ブレンド」という珈琲と手作りのケーキを注文し、店内に置いてある祝島の書籍や写真集を眺める時間。冷え切った身体を温めるにはよい時間となった。18時になると、島の若者たちが集まり島談義を始めた。どうやら、島外のイベントに出店する打合せをしているようだ。
 島を想う人が島の中に多くいる。私が住んでいる本州島でも、同じように小さな繋がりが続けば幸せなのだろう。

 翌8日目が「第14次瀬戸内カヤック横断隊」解散の日となった。定期船で帰る隊士、祝島の清水船長の船をチャーターして帰る隊士、漕いで帰る隊士と別れ、それぞれがまた元の場所へと帰っていく。反省会のときや別れ際、前回、私が参加した「第9次瀬戸内カヤック横断隊」で一緒になった楠隊士からは「最高のリーダーやったよ」、原隊長からは「まるで別人のように見違えた。またよろしくな」と、褒められたことが何よりも嬉しかったことだ。6日目の夕方に、わざわざ祝島まで駆けつけてくれた内田元隊長には、「リーダーやったのか、やるじゃん」と、私の肩を叩きながら笑顔で言われた。シンプルな言葉だが、非常に有難みを感じた。
 そう言えば、前回低体温症で苦しんだ私には「テイタイオン」というあだ名が付けられたが、今回で汚名返上となった。
代わりに「ジャイアンもとい」というあだ名が裕治隊士によって付けられた。私の漕ぎ方を日中観察していた裕治隊士は、「漕ぎ方が、ドラえもんに出演するジャイアンが身体を揺らしながら歩くようだ」という私の漕ぎ癖を指摘。そして、私がリーダーを務めた6日目、私が針路修正の際に発する口癖が「もとい~(修正の際に冒頭につける言葉、そうではなくという意味)」という言葉から始めたところを、後方で苦笑しながら聞いていた隊士たちが指摘。結果「ジャイアンもとい」という名前を頂いたのだ。
 こうして新しい門出となった「ジャイアンもとい」は、三澤隊士と共にカヤックで漕いで祝島から長島の蒲井まで戻り、関東地方へと帰還した。
 この「瀬戸内カヤック横断隊」に参加し瀬戸内に向き合う時間は、私にとって素晴らしい時間となった。その経験があるからこそ、共に海と向き合い寄り添う人々との繋がりを大切したいと思える。そして、瀬戸内だけではなく、全国の海へと向き合う糧としたい。それが、自分の生きる道標となっていくのではないかと思う。
 今回、苦楽を共有したことで、海でも島でも信頼することができるカヤックの仲間ができたことである。それまで、単独で海に向き合い旅をしていくことが、シーカヤッカーの面白みであると思っていた。しかし、互いに信頼できるチームで旅をすることが、これ程までに楽しく刺激的なものだとは、今回初めて気が付いた。
 「第14次瀬戸内カヤック横断隊」以前も、他の隊士に「関東の隊士」として接してもらっていた私であった。しかし、私の中で「半人前」という心の隔たりがあったのかもしれない。ようやく、この旅を通して、私も「隊士の1人」になることができたこと。それを実感できたことが、私にとって最も素晴らしい経験となった。


xi. おわりに

 今年も第15回を迎える「瀬戸内カヤック横断隊」が11月に行われる。
 「シーカヤックアカデミー」の実践版として始まった横断隊。ツアーやスクールではなく、アカデミーである。参加するには、海に向き合い寄り添う1人のシーカヤッカーとしての自覚と責任が必要になってくる。私がこの海旅を通して学んだように、失敗も含め様々な経験が待ち構えているだろう。ただ、その学びの中で、必ず次へ進むための活力を自ら得ることができる。
 この私のレポートが、「瀬戸内カヤック横断隊」に挑戦してみたい人、瀬戸内という海を通して世界を考えてみたい人にとって、次の「瀬戸内カヤック横断隊」に臨むための参考資料になれば有難い。

2016第十四次瀬戸内カヤック横断隊レポート 西原 敬治

第14次瀬戸内カヤック横断隊レポート 西原敬治



【はじめに】
 第9次(2012年)から数えて6回目となった今次横断隊。やっと「自分も横断隊のメンバーの1人」というか、「ここに自分がいてもいいんだ」と思えるようになった。これまではどことなく場違いな、居心地の悪さが拭えなかった(勿論その原因は私自身にあって、周囲の隊士は取っ付きにくいであろう私を寛容に受け容れてくれた-感謝)。そんな違和感が薄れたのはこの間、漕力、ナビゲーション力、陸上での生活術などの点でわずかではあるが進歩したこともあるだろう。しかしそれ以上に、隊士一人ひとりの名前を覚え(教師でありながら、生徒の名前を覚えるのがとても苦手なのです)、その人となりに触れ、わずか10日足らずではあるが横断隊という集団生活を重ねる中で得られたものだと思う。それらは“シーカヤックアカデミーの実践版”という本質からはズレているかもしれないが、私の心を暖かく豊かにしてくれる。
 そんな訳で、今回のレポートは以前のものに比べ、肩の力が抜けて(抜け過ぎて?)いて、「何だこれ、出しゃぁ良いってもんじゃないんだよ!」と言われそうですが、レポート提出という“最低限の義務”は果たしたということで、お許しいただきたい。

【何となく予期した初日リーダー指名】
 小豆島集合日の11月17日、玉野市沼の漁港横のビーチから13:10離陸。2年前と同様のコース(豊島北端の虻崎→豊島・小豊島間を南下→小豊島南端→小豆島黒崎)をとり、20km先のヘルシービーチを目指す。翌日からの本番にとっておきたいような快晴無風の小春日和のもと艇は進み、15:25ヘルシービーチに着陸。出迎えてくれたのは、5分割艇を宅急便で送り、身一つで小豆島に乗り込んできた井上隊士。彼から事前に、「今回は少人数の隊になるらしい」と聞いていたが、まさかぎりぎり2桁の11人になるとは。
 艇をタイドラインに並べ、各人があらかたパッキングを終えたころには陽もとっぷりと暮れ、前夜祭が始まる。1年ぶりに酌み交わす酒は格別だ。しかし、そのとき私の頭を占めていたのは……。今次の横断隊に参加するに当って私は、「もしリーダーに指名されたら、進んでそれを受けよう。いやしくも前回(13次)のように、スタート前夜の宴会で“リーダーだけはご勘弁を”と泣きを入れるような恥ずかしい真似はすまい」と心に決めていたのである。そのために、①どの日に指名されても良いように、全コースの中でポイントになる地点の干満の時刻を事前に調べる(私はスマホ不所持、ちなみに初日のポイントは与島)②その日のコースに関して分からないことは、積極的にベテラン隊士に聞く③素人のナビゲーションは批判されて当たり前、批判は“成長の糧”-の気構えで臨んだ。そして“どの日に指名されても”とは言っても、その中で特に“初日”の指名を強く望んでいた。実は2年前、小豆島スタート初日のリーダーに指名された私は、そこでいくつかの大きなミスを犯してしまった。「是非それらの失敗のリベンジがしたい!」そんな私の心の中を見透かしたように、原隊長は翌日のリーダーに私を指名したのである。“以心伝心”を強く感じた瞬間だった。

【リベンジはできたか】
 6:30出発前のミーティング。この日の天気は晴れ。東よりの微風。ポイントとなる瀬戸大橋直下の与島の干潮は7:24、満潮は14:01。追い風・追い潮の絶好のコンディション。私はそうした状況を説明し、①この日の第一目標を“昼食休憩前に瀬戸大橋を超える”こと。②宿泊地は昼食休憩後のミーティングで、時間・隊士たちの余力・潮流や風などの海況などから判断して決定する-と提案し、了承された。
6:50小豆島ヘルシービーチ離陸。まず豊島南端の礼田崎を目指す。その途中、小豊島の南にさしかかったころ、前方やや左11時の方向に特徴的なおむすび形の大槌島を確認。前回はこれを怠ったために、礼田崎を過ぎた地点で大槌島を探したが柏島の陰になって確認できず、あらぬ方向(豊島の岸沿いに北上)に隊を導いてしまった。今回は迷わず直島と柏島との間へ直進。これで第1関門通過。やがて柏島が迫り、岸近くの生簀のブイが見えてきた。前回も直島・柏島間の狭い海域をかなり速い上げ潮が流れており、前を行く艇のためにブイの発見が遅れ、後ろからの上げ潮によってブイに押し付けられる形で、ある隊士が沈してしまったのである(まきよ隊士ごめんなさい)。リーダーとしてはブイの存在を早めに後方に知らせ、もっと生簀から離れたコースを取るべきだった。今回はその教訓を生かし、両島のど真ん中を無事通過。これで第2関門通過。
直島・柏島間を抜け大槌島を正面に望める広い海域に出ると、GPSの速度表示がぐんぐん上がり、瞬間最大速度は12.8km/hに。一瞬「大槌に寄らず、上げ潮が強いうちにそれに乗って直接瀬戸大橋に向ったほうが…」とも考えたが、離陸してからもう3時間近く、予定通り上陸休憩することにする。ところが問題発生。上陸予定地点まで10m余りの所で激しい潮流に阻まれ、漕げども漕げども岸に近づかないのである(今から思えば、上げ潮が大槌島にぶつかり、そこで左右に分かれる、その流れが原因か)。そのとき、力まかせに上陸しようとする私の背後から、「西原さん、そこに上がるのは無理!」。その声に素直に従い島の西側に回り込むと、そこは遠浅の磯で艇のボトムが気になったが、潮流はほとんどない(風ウラならぬ潮ウラ?)。休憩後、一路瀬戸大橋へ。1時間後、与島手前で海上休憩。このまま橋をくぐることを全員で確認(前回は大槌休憩で時間を取りすぎ、橋直前に来たときには下げ潮が始まっていて一旦与島に上陸して潮待ちした=私の失敗その3)。しかし橋直下の与島北端と、その北の橋脚として使われている佐羽島の間の、幅がわずか200mの海域はかなり荒れているのが分かる(水深が浅いのか)。それにかまわず直進。結果的には11人全員、沈することなく無事に瀬戸大橋を超えたのだが、他の隊士には申し訳なかったと思っている(井上隊士からは直後に「沈寸前だった」と言われたし、村上隊士は後日fbで「この時は、ほんとしびれたなあ…」とコメント)。実は洋上休憩後に漕ぎ出すとき、佐羽島とその北側の岩黒島の間(幅約1km)の方が穏やかに見えた(工藤隊士はレポートで「右の橋脚の方を見るとそんなに波立ってなかったのでそちらを通った方がよかったんではないかと思いました」)。それにもかかわらずそちらを選ばなかったのは、「一刻も早く橋をくぐりたい」との願いから、それがとてつもない遠回り思えたため。そしてそれ以上に“前回のリベンジ”を意識するあまり、2年前と同じコースにこだわったためではなかったか。今回最も反省すべきポイントだと思う(しかし、とにかく第3関門通過)。
こうして11:20瀬戸大橋を通過し、本島東端に昼食休憩のため上陸。この時点で、私の本心は「今日の仕事は終わり」だった。後は無理のない範囲で、どこまで西進できるか。これについても何人かのベテラン隊士のアドバイスに助けられた。(その1)昼食休憩に上陸する前だったか後だったかタイミングは忘れたが、楠隊士から「午後は、このまま本島・広島の南岸をまっすぐ西に向った方が良くないか」と助言された。“午前中に瀬戸大橋を超える”という最大の目標を達成し、心が軽くなった私は前回のコースへのこだわりからも解放され、初めてのコースに対する興味と、“瀬戸大橋からストレートに遠ざかりたい”という思いからそれに従った。(その2) 本島・広島の南岸を西進し、2時間かけて広島南端の早崎にたどり着いたとき、自分を含めて隊の体力はかなり消耗しているように感じた。ヘルシービーチを離陸してから休憩時間を除いて6時間漕いで来たことに加え、午前中味方してくれた追い潮(上げ潮流)も途絶えていた。真西には佐柳島、その手前に小島が見えている。小島までの距離は5km。「この海峡横断はちょっときついかな?キャンプできるかどうかも分からないし…それより北上して小手島に向う方が、途中まで広島の岸沿いに進めるので、精神的に楽では?」判断に困った私は、迷わずベテラン隊士たちに相談した。そのとき(たしか原隊長だったと思うが)「小島にもキャンプできる所があるよ。隊としては初めての島だけど、行ってみよう」とのアドバイスが。早速、休憩中の隊士たちに集まってもらい“小島への海峡横断”を提案すると、思いはそれぞれあったろうけれど、賛成してくれた。しかし予想にたがわず、この横断は体力的にも精神的にも結構きつく(三澤隊士はfbで「広島からの最後の海峡横断は逆潮で失速。もしかして体力の問題?(笑)」とコメントしている)、中間地点での洋上休憩を挟んで16:00小島着陸。振り返ると、意気揚々と超えてきた瀬戸大橋が小さく霞んで見えた(自己満足と言われるかもしれないが“リベンジできた”と総括したい)。
さて、この項を終わるに当ってお詫びしなければならないことがある。実はその夜の焚き火を囲んだ反省会で、私に対してどのような批判があったか全く覚えていないのである。辛口の批評をして下さった隊士の皆さん、誠に申し訳ありません(こんなことだから「いつまでたっても成長しない」って言われるんだろうなぁ)。

【2日目以降について】
ここでは2日目以降印象に残っている事柄を、逐条的にコメントする。
・ 2日目、昼食休憩に上陸した小室浜(鞆の浦と阿伏兎観音の中間地点)。着陸するときには何の困難も感じなかったのだが、40分後に離陸しようとするときには、腰高ほどの波がブレイクしている状態に。船の引き波とは異なり、なかなか収まりそうにない。そんななか、私は艇を波に対して直角に、半分海に浮かべた状態から乗り込み、離陸しようとした。しかし、荷物を満載した艇のスターンはなかなか浜から離れず、思った以上に高い波が一波二波と押し寄せ、容赦なく海水がコックピット内を満たしていく。「完全に水舟になってしまう!」その瞬間艇は浜を離れ、最悪の事態は免れた。それでも艇は半水舟状態。ビルジポンプで排水しなければならないが、何とポンプは後ハッチ上にバンジーで固定してあったのである!結局ほかの隊士に頼んでポンプを取ってもらい、やっと排水できた。(教訓その1)ブレイク状態の浜から離陸するときには、スプレイスカートをきちんとつけてから。(教訓その2)格好つけて自力で離陸するのでなく、後ろに人がいる場合は遠慮なく押してもらうよう頼む(その方がみんなに迷惑をかけずにすむ)。(教訓その3) ビルジポンプの使用が予想される場合は、事前にポンプは手の届くところに(当たり前?)。原隊長曰く、「ブレイク状態の浜へは、経験のあるものが最初に上がり、最後に出る」。そんな“経験者”に、いつになったらなれることやら。
・ 3日目の午前中は、断続的に雨に降られた。特に昼食休憩場所の伯方島沖浦ビーチ手前では、激しい夕立のような雨に見舞われた。その中、私はラッシュガード1枚で漕いでいたのである。それまでに、雨具代わりのパドリングジャケットをハッチの中の防水バッグから取り出すチャンスは何度かあった。しかし、「どうせすぐ止むだろう」とか「ジャケットを着ても内で蒸れて、濡れてしまうのなら同じこと」と甘く考えていた。だが激しい雨に打たれて(少し痛いほどだった)体温を奪われることで、体力をかなり消耗してしまった。したがって、こんなときはパドリングジャケットを何時でも着られるように、手元においておく必要を痛感した(これもベテランから見れば「アッタリマエじゃないの!」ということだろう)。
・ 4日目。上蒲刈の県民の浜から下黒島経由で倉橋の亀ヶ首を目指しての海峡横断。その日リーダーの井上隊士から「西原さん地元なんだから、どれが亀ヶ首か教えてね」と頼まれたのだが、黒島での洋上休憩のときいくら目を凝らしても亀ヶ首を特定できなかった。倉橋の山並みは何とか見えるのだが、海面近くが霧に覆われ「あそこが亀ヶ首」と示すことができなかったのである。そこで、海図とコンパスを使って大体の方向を割り出し、「はっきり分からないけれど、この方向に間違いないと思う」と、誠に頼りない助言(?)しかできなかった。しかし30分余り漕いでいく内、徐々に見えるようになって、無事横断できた。これと同じような経験を、私は初日にしている。大槌島から与島に向うとき、スタート時点で与島を特定できなかったのだが、「おそらくこの方向だろう」と見当をつけて漕いでいくと、だんだん見えてきたのである。(教訓)スタート時に目標がはっきり見分けられなくても、大体の方角さえ間違っていなければ、そのうち見えてくる。(これもアタリマエ?)

・ 6日目。昼食休憩直後、上関海峡手前で糸井リーダーの艇がラダートラブル。最寄の浜に緊急上陸し、原隊長初め数人のベテラン隊士たちが修理に当たり、私を含め大半の隊士たちは洋上でそれを見守っていた。結局10分余りで再出艇できたのだが、後で「あんなときはみんな上陸して協力し合うべきでは?」という意見も出された。しかし上陸後のカヤックの運び上げのような場合は全員の協力が必要だが、艇のトラブル発生時には、それなりの道具とスキルを持った隊士が少人数で事に当った方が良くはないか。私自身、第11次横断隊でラダートラブルに見舞われたとき、実際に修理に当ってくれたのは連河隊士ら数人だったが、それ以外の隊士たちに対し「冷たいなぁ」なんてことは毛ほども思わなかった。だが今回のトラブルに関して反省すべき点はある。(その1)過去の経験から、トラブルに備えた部品や工具は持ってきていた。しかし、それらはバウの一番奥に丸めて詰め込んでいたので、それを取り出すにはほかの荷物をすべて出してしまわねばならなかった。もうすこし出しやすい位置にパッキングしなくては。(その2)実際に修理に当らなくても、側でよく見ていれば色々勉強になっただろうと思う。そのいい機会を逃してしまった。

【おわりに】
 小豆島・祝島間を完漕したのは、今回で2度目である。そのどちらも小豆島→祝島であって、逆コースの完漕はない。たまたまなのか、それとも何か理由があるのだろうか。個人的には、“小豆島→祝島”の方がテンションが上がる気がする。
 最後に差し入れしてくださったサポーターの方々、歓待してくださった祝島の皆さん、ありがとうございました。そしてお世話になった隊士の皆さん、第15次横断隊での再会を楽しみにしています。お元気で。

2015第十三次瀬戸内カヤック横断隊レポート 村上 泰弘

第13次瀬戸内カヤック横断隊…隊士:村上泰弘



祝島から小豆島へ…。12次は小豆島から出て祝島、無事完漕。13次のコースは、僕が原君の代打として隊長を務めた11次と同じ東向き航路。横断隊は、7日間、1日1日の漕行距離の積み重ね…。それが約300キロの足跡を生む。荒天が続いて完漕できなかったとしても一回一回内容の違った足跡が確実に刻まれてる。天気気候と隊士の構成・力量・経験値などさまざまな要件が重なって、より複雑な足跡が残っている。

今回は、今まで以上に自分との闘い色がより強い横断隊だったような気がする。前は、まわりに結構弱音を吐ける人たちがいたんだけど、なかなか真面目な人たちが増えて、ついていくのに必死な時間が長くなってくるようになったなあってことかな。テントな中で足がつってのた打ち回る回数も増えたし。

小豆島がゴール、もしくはスタートになったときは、かなりスケジュールに余裕がなくなってくるなっていうことがよくわかる。一日の漕ぐ距離が40キロとして、7日で280キロ、ぎりぎり。ということは、1日漕げなければ一日45キロ以上は漕がないと6日で270キロ越えにはならない…。現実は、そううまくはいかない。一日15キロくらいしか漕げない日もあるし。だからこそなかなか完漕できないんだけど…。数字に表すと、ええっこんなに毎日40キロ以上も漕いでいたかな?ってちょっとびっくりしてしまうけれど。前はそこまでしんどくはなかったし、無理もできていたから、そんなにたくさん漕いでいる意識はなかったのかな。カヤックが重いのは前からなので何も変わってはいないのだから、やはり体力が落ちてるんだろうなあ…。でも前はポリ艇の比率も高かったので今ほどスピードなかったと思うけれど…、逆にポリ艇が多かったから少々荒れてても迷わず海に出て、遅いながらも距離を稼げていたのかな。わからん?

13次はどうだったろうか、今回の横断隊、後半の天気が怪しかったので、前半にどれくらい距離を稼げるかがの完漕の重要な条件だったんだけど、前半に思ったほど距離が稼げなかったのも原因だったなあ、なぜだろう。なのに前半の遅れを取り戻すための頑張りどころ、ここって時に僕のラダーケーブルの断裂で隊を止めてしまって潮流が変わってしまって距離を稼げなくなって岩子島に停泊になってしまったことと、翌日は、サキちゃんにホクレアを広島で出迎えた内海町の打瀬船を見てもらうために時間を取ってもらったり、昼休みに入っていたラジオ生中継での長めの昼休憩で時間を取ってしまい、翌日が荒天が予想されていたのにもかかわらず距離を稼げなくて福山止まりになったこと、余裕のある時であれば問題なかったんだろうけど、漕げる時間を損してしまったなあ…と痛感。結果的にはこれがなければもしかしたら瀬戸大橋を超えられていたのかもしれないな。それに関しては申し訳ない思いばかりだ。それだけゆとりって少ない航程なのだろう。特に東向き航海は…。

今回、判断を迫られたのは蒲刈南から山陽側に北上するかどうかと、福山沖を岡山へどう抜けるかだった。蒲刈から山陽側に抜けたのは正解だったと思うけれど僕のラダートラブルが起きるまでは…。福山沖に関してはぎりぎりの選択をせざる負えなくなったなあ。翌日から思い切り荒れるのがわかっていた、あと二日あったけれど「何処にいれば、より距離を稼げるか」出られなくても撤収がしやすい場所に近づけるか…。僕の頭の中では、なんとか尺取虫で山陽側を漕ぐしかないなと思っていた。となるとなんとか6日目、玉島の沙美海水浴場までたどり着ければ…。そこで7日目奇跡が起きればコンビナートと瀬戸大橋…そして渋川海岸。

6日目の決断も重要だったなあ。福山を出て神島で休んだ後、東行を選ぶか、白石島に向かうか。白石島方向は島が並んでいるのと潮流もあるから通常以上に波が出ているのはわかっていたのだが、これはかなりきつかった…、沖がここまで荒れてるとはびっくり。今がこの波で、翌日いきなりこの波ならって考えると…気持ちは、なえるよね。正直、これで終わりだな13次横断隊って実感した瞬間だった。やはり白石パラダイスは最高だった…。

さて、山陽側を陸沿いに行っていればどうだったろうか、笠岡の港周りもやはり荒れていただろうか…、寄島の三郎島の浜辺…そして沙美海水浴場。そこまではなんとか行けてたような気もしないではない。今回岡山に詳しい隊士がいなかったので、最終的な決断はできなかったが、この手もあったという可能性を試せなかったのは少し心残りだったかな。だれかが、どうせならコンビナートのような人工物の前を漕ぎたくない、なんて言ってた人もいたけど、それも瀬戸内海を漕ぐということではないのかな…とも少し思ったけど。(まあこれは都会を漕ぎなれた人ならではの意見なのかもしれないかなとも思った)

荒れる2日間があったので、こういった考えが浮かんだろうなあ。これからの横断隊でもよく似た状況はこれから何度も遭遇するだろうなあ。そして決断を迫られるんだろうなあ。それにしても、俺の荷物、なんで重いんだろうなあ。食料の余分以外はさほど違わんと思うのだが…。少しでも長く参加できるようには、そっちを先にクリアしたほうがいいのかな…。

天候、参加人数や性格、各自の力量や隊のバランス、潮具合、イレギュラーな要件、それぞれがすべてにかかわりあって、その先にゴール。今回は、横断隊士を率いる隊の難しさを今更ながら感じながら進んでいる原隊長の横顔を見る
ことができたような気がした。本人は否定するかもしれないが…。内田さんから引き継ぎ、進化と試行の原横断隊、これからなんどか脱皮を繰り返して、内田隊とは一味違ったものになるんだろうね。




SETOUCHI Seakayak Aventuras 村上水軍商会

村上泰弘

2016第十四次瀬戸内カヤック横断隊レポート 原 康司

第14次瀬戸内横断隊レポート 原康司



僕が隊長になっての3度目の瀬戸内横断隊。今年の秋は私事で存分に海に出れていなかったこともあるが、1週間海にどっぷりと浸かるこの1週間が待ち遠しかった。横断隊が始まる前は、幾何かの不安が頭をもたげてくるのはいつものことだが、今回は不思議にそういった思考は出てこなかった。存分に海を見つめ身体を酷使する日々を心から求めていた。
そういった意味では初期の横断隊に参加するときの初心に近い、貪欲に瀬戸内の海を求める欲求が戻ってきたことは自分の中での新たな変化であり喜ばしいことでもあった。

そして久しぶりに11艇というコンパクトな隊士構成で進んだ横断隊。各人それなりに漕げる隊士が集まったときに起こる、それぞれの隊士が担う役割というものが1週間の中で構築されていくのは興味深かった。プロガイドやベテランが今回は少なかったこともあるが、各隊士がそれぞれの個性を発揮して非常にバランスのとれた横断隊でもあった。隊士が瀬戸内の海に対してしっかり責任感をもって漕ぎ、過ごした日々であったと思う。

比較的に天候に恵まれ、6日間で祝島に到着するという異例の横断隊でもあった。最終日7日目は、ほぼ祝島への横断は無理だろうということから6日目に到着を優先したという形になったが、それも一つの横断隊での形であり、各隊士の想いを共有したうえでの判断だったのではないだろうか。

14年間もの横断隊の歴史を思い出すと、同じ時期に漕いでいるだけに年々の気候の変化を肌で感じることもある。明らかに冬型の気圧配置が少なく、長続きもせず東風が多い。小豆島離陸のほうが楽に進めている実感がある。以前はパドリングジャケットを脱ぐことは考えたことはないが、去年は1日、今年は2日、パドリングジャケットを脱いで漕げるほどの暖かい日があるときもある。そういった体感からは少しずつ気候の変化、もしくは季節のずれが生じているのだろうということは感じている。

そして自身のカヤックを久しぶりにポリエチレン艇に戻した。気兼ねがないというのが一つの理由だが、ポリエチレンの柔らかい素材のもつしなりがまた心地良い乗り味だった。フォールディング艇などはその気持ち良さはなおさらだろう。荷物満載のカヤックではスピードにもそんなに変わるものではない。その堅牢度からも長距離の沿岸航海にはポリエチレン艇の方が向いているのではないかというのが僕の持論だ。ただ最近のモデルには重積載に耐えるモデルがないのが少し残念でもある。

一見、順調そうに見えた今次の横断隊であったがトラブルがなかったわけではない。沼隈の海岸での離陸直後の沈脱はほんの不注意からくるものだった。コクピットに浸水して何艇かは岸に戻ってくるだろうと出艇を見合わせていると案の定そうなった。下手をすると怪我や船の破損による航行不能に陥る可能性もあっただけに軽く考えてはいけない。瀬戸内では珍しいが、ダンパー海岸ではリーダーは注意を促し、最初に着陸、最後に離陸するのが基本だ。しまなみ海道や周防大島への横断の潮の読み方も、各人で相違があり興味深い。僕自身は地図や潮汐表にあまり頼らずに経験や目測を頼りに船を進めた。その日の決定の根拠などもリーダーは当日説明するべきだったかもしれない。そのあたりは当日のリーダーから報告があることを期待している。

ここ数年の横断隊はその日一日をできるだけ前進に費やしていることもあり、途中での現地の方々との交流は少し少なくなってきているのはさみしいところ。しかし小豆島の山ちゃん、連ちゃん、ビーテンさんの浜でのもてなしには隊士ならではの気遣いがあり嬉しかった。都合により参加できなかった大介の二日間にわたる差し入れにも感謝したい。高橋さんの薪の差し入れもいぶし銀でした。フェイスブックで繰り広げられる引退隊士(暫定)の航路シュミレーションもさすがだなぁと感心です。
横断隊はみんなの想いをしょって進んでいるのだなと感じながらの1週間でした。

そして祝島。内田元隊長と高橋隊士との合流。やっぱりこれだよなぁというなつかしい感じ。そしていつものハプニング(笑) まあここでは詳細は書かないのだけど、要は常に謙虚にリスペクトしなきゃいけんじゃろというお話。

ということで7日目の唄
お互いリスペクトすれば必ず最後には分かり合える。そして光が見えてくる。
原発が終わらないのはリスペクトが足りない。いらんと言っている人たちの所に何度も何度もやってくる。一見謙虚に見せてはいるが、その裏にある黒い意識。それは隠せない騙せない。人や島、そして海へのリスペクトがない。それじゃ終わるはずがない。
リスペクトしたい。でも相手は個じゃない。伝わらない。その繰り返し。
兵隊はいくらでもいるぜ。壊れりゃ次がいる。荒む感情、怒りと悲しみ、消えない対立。
普通なら逃げ出す。でもあきらめない。自分達は海そのものだから。海がそこにあるから。
僕たちは学ぶ。そのスピリットを。日々の生活、日々の問題。根っこは一緒。
漕がなきゃ分からない。言葉ではどうしても言い表せないことがある。
目で語り悟る。それが日本列島人。空気を読む。空を読む。それが海気。
だから漕ぐ。海を往く。漕げる喜びと幸せ。平和な海。漕げることは平和なのだ。横断隊はまだまだ続く。平和である限り。いや平和を求めていくために。

以上隊長のレポートでした。

余談というか本談なのだけど1月に大きなカヌーでもある打瀬船建造航海プロジェクトが本格的に始まります。これも一つの横断隊のスピリットから始まったこと。もちろんすべての横断隊隊士に関わってほしい。船は違えどやることは一緒なのだからね。







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瀬戸内カヤック横断隊

Author:瀬戸内カヤック横断隊
2003年第一次瀬戸内カヤック横断隊からの記録を掲載しています。

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