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2012第十次瀬戸内カヤック横断隊レポート 内田 正洋

隊長 内田正洋の報告

瀬戸内(せとうち)という言葉は、江戸時代の後期から使われ始めた概念だといわれる。瀬戸内カヤック横断隊は、江戸時代どころか、それ以前、いうなら縄文時代からの、瀬戸内の海の概念を知るために結成されたといっていい。手漕ぎで7日間、毎晩浜辺で過ごしながら、目標の島を目指す原始な航海。

明治時代になり、瀬戸内からThe Inland Sea になり、そして瀬戸内海(せとないかい)と翻訳された今の瀬戸内だけど、横断隊は以前のリアルな瀬戸内を旅している。今時、そんな瀬戸内を旅している輩は、他にいない。

元々セトとは、狭門や迫門、湍門とも書き、海峡のことだ。セトウチは、海峡の内側という意味になる。湍はタンとも読み、ハヤセ(早瀬、湍流)のことだ。狭い門や迫る門、早瀬の門が瀬戸だったということになるけど、つまりは海峡を越えながらの旅が、瀬戸内の旅。そして、瀬戸の内側の本来の姿を理解するには、シーカヤックによる旅しかないのが今の現実だ。

今次も、湍を何度も経験し、衝突してシーカヤックが破損するちょっとした事故もあったし、あの船折瀬戸を無事に通過できたタイミングを見極められたのも、まさに瀬戸内の旅の醍醐味だった。そして、毎晩、どこかの浜辺で流木のたき火をしながら、本州島にはほとんど寄らず、離れ島伝いに旅をするのが瀬戸内カヤック横断隊である。

夜になると、周りには21世紀の町並みから放出される電気エネルギーが遠くに見えるけど、横断隊の一夜の浜には、わずかにたき火の光とヘッドランプの灯しかない。エネルギー消費の現実が分かる瞬間。今後の日本のエネルギー政策を考える意味でも、瀬戸内シーカヤック旅は、重要な本質を教えてくれる。

だからこそ、上関町長島の田ノ浦を埋め立てることに嫌悪を感じるのは、シーカヤック旅を経験すれば、通常の精神なら当たり前となる。あの、海中林豊かな田ノ浦を埋め立てて、原子炉を二つも置こうなんて計画は、理解不能な価値観でしかない。今次も田ノ浦だけは、海藻が繁茂し、ホンダワラがパドルに絡みついた。

離れ島とをつなぐ橋ができたことで、浜にあった流木が本土(日本の四大島)の論理で片づけられる。ビーチクリーンはいいけれど、流木まで片づけられたら、どうやって暖が取れるのか。知床では、世界遺産になってからも、流木によるたき火で暖を取るシーカヤックは、植生に影響を与えないよう気遣いすれば、問題になるどころか、それが大事なことだとされている。そういった生きる上での重要な価値観は、本土につながる架橋によってすぐに消えてしまう。岡村島の浜辺の変遷が、それを物語っていたな。

と、ここまではfacebookの瀬戸内カヤック横断隊隊員ページに書いたこと。でも、岡村島では、五福隊士のおかげで、キチンと特別!許可を得て、無事に暖が取れたのが実際だった。我ら横断隊は、めげないのである。

ということで、第十次瀬戸内カヤック横断隊が終わった。第一次の横断隊が始まった時、オレは47.8歳だった。今や56.8歳である。この小数点以下を入れて年齢を考えるのは、祝島の重村の爺さんに教えてもらった。徐福の伝説とコッコーの実の話をしてくれた重村の爺さんもすでにこの世にはいない。倉橋島の唐船浜キャンプ場の水谷さんも、もういない。たかが10年だけど、時代は変わっている。大津波や原発大事故が起ることは、10年前から想像はしていたけれど、現実になるとは思いたくなかった。でも、現実となった。日本はこれから何十年と国難が続く。完全に復興できるには百年単位かもしれない。今も、フクシマダイイチでは、放射能が漏れ続けている。それが、現実。

今次の横断隊を終え、オレは隊長という役目から退役する。当初から宣言していたことだから、それは守る。次期隊長は原康司隊士である。副(裏)隊長は、継続して大田のユー爺隊士になるんやろ。横断隊員を、隊士と呼ぶ方が相応しいと思ったのは、前回の第九次の時だったかの。志士やから隊士。あの3月11日から1年目のその日に第九次はスタートし、結局祝島までは到達できなかった。でも、今次は到達できた。これで祝島~豊島の往復手漕ぎ航海が完遂したことになる。

これまで、隊長としてやって来たことは、すべて原隊士に伝えねばならん。でも、彼はほとんど分かっている。逆にオレが分かっておらんことも、彼なら分かっている部分もある。上関騒動の当事者でもあるからだ。彼の瀬戸内を守る姿勢は、本物であることは間違いない。上関原発反対旗は、第一次から横断隊と共に行動してきたし、それを運んでいたのが原隊士。

今次は、30名を越える隊士が集まったけど、最初の数日は、やはり新しい隊士との間に壁があった。隊長の役目としては、隊士が初めてだろうがベテランだろうが、みんな同じ志士であるということを意識することだ。そこに区別はないし、情報が足りない新人隊士には、情報をいかに伝えられるかである。それは、高杉さんの奇兵隊に通じると思う。結局7日目には、かなり情報の格差が埋まっていたと思う。もちろん、すべてではないが。そして、今やfacebookというツールがあるから、解散した後でも情報が共有できるのは、ありがたい。なるべく全員の気持ちを感じながら漕いでいるけど、あれだけの人数になると、なかなか大変やった。やけど、それぞれの漕ぎを見ていれば、何となく分かるから不思議なもんだ。

横断隊の10年、70日間の中で、シーカヤックが転覆したことはない。一度だけ広島の方の木村先生隊士が、休憩中にオレの乗ったダブル艇に「コツン」とやられて、メシを食っていたもんだから「あーれぇー?」と転覆したぐらいか。田ノ浦だったな。あと、武井ちゃんも漕ぎながらヨガなんぞやって転覆したけど、ロールで起き上がったぐらいだな。フル荷重されたシーカヤックほど安定した舟はなかろう。水線長が長くなるので速度も上がっているはず。1日参加で、空荷で隊について行くのは、逆に大変かもしれない。重いシーカヤックは、走り始めたら勢いがつく。初日で離隊した西岡隊士も空荷だったようだ。来年は、フル荷重やろーな。

今次は、当初から祝島へと到達するのはギリギリだろうと考えていた。何せ艇数が多かったからだ。豊島で確認した時には、ホント魂離た(たまげた)ほど多かった。やけど、到達できた分岐点になったのは、下蒲刈島から情島への海峡横断。あの1時間の漕航があったから、祝島へ到達できた。あの現場で潮待ちしたのは、そういう六感があったからだった。あそこの海峡横断では、以前にも同じことがあったし、潮待ちすれば凪ぐと感じていた。ちょうどそんなタイミングだった。その根拠がどこから来るかは分からんが、やはり「気」を微妙に感じているんだろう、と思う。天の気と、魂からの気の両面があるんだと、今次ではよー分かった。

30艇ものシーカヤックが一緒に行動していると、準備で少しは時間が余計にかかるけど、「気」によってみんな動かされておるようだから、それほど大きく遅れることがなかったのは発見だった。さらに、前方に30艇近いシーカヤックがいると、そのパドリングによる水流が強くなることにも驚いた。これはパドリング・カレントですね、と命名したのは西表から来た万作隊士(チョースケ)。この水流も大発見であった。まだまだ、シーカヤックの世界は奥深い。

沖家室島へ向かっている時、いきなりオレが歌い始めたのは、隊の気が落ちていたからで、自然にそうなったんやけど、あれで一気に雰囲気が変わった。雰囲気というのは大気を意味するらしいけど、意識しておけば、すぐに対応できるんやろーな。雰囲気の雰は「氛(ふん)」とも書くらしいとfacebookに書いたけど、日本語は深いもんだと本当に感じる。「氛」もまた大いなる気(大気)のことだ。そして、気は外界にある。

横断隊の標準語というか共通語を瀬戸内弁にせにゃならんと思うたのは、ハル隊士が、「ですます調や丁寧語で指示や返事は、いらん」と言うたのが、きっかけやった。ああいう言葉遣いは、商業ツアーの話やろ。隊士は仲間やから、そねーな言葉はいらんちゃね。瀬戸内弁っちゅうのは、存在せんのやろーけど、方言の分布で言うなら、岡山、広島、山口、香川、愛媛ぐらいなんかのぉ?徳島は関西弁に近いよーな?

言語学者の小泉保さんは、表日本縄文語という括り方をしちょっておられ、それは山陽、近畿、東海を占めていたと書いちょられるんよ(縄文語の発見)。瀬戸内という地理的概念が縄文晩期ぐらいからあったとすりゃあ、その方言がオリジナルの瀬戸内語かもしれんちゃぁね。表日本縄文語と裏日本縄文語、それに九州縄文語、琉球縄文語という区分を、縄文語後期と小泉先生はしちょられます。その前が、縄文語中期で、琉球縄文語が本土縄文語と分かれた時期。縄文語前期は、縄文語が成立した時期とされちょられるのぉ。

そういや、西日本で使う「のぉ」という終助詞は、「のう」とホントは書くんやけど、古語であるらしい。「なう」から「のう」になり、今は「ね」「ねえ」「なあ」になっちょる。方言の中に、古代世界が残っちょるんよのぉ。そねーな意味でも、瀬戸内融合弁を学ばんといかんちゃぁーね。やけど、ジモティ(地元民)にゃ楽やろーけど、他の地方の人にゃー、むつかしかろーの。そしたら、それぞれの方言でやり合うのも手かのぉ。とはいうても、リーダーが使う言葉は短く端的に言わんといかんから、方言やのーても、命令口調でええんよ。その方が早よー分かるけんな。

それと、横断隊の目的は旅をすることやから、旅の意味も考えんといかんちゃーね。Facebookにも書いたけど、旅は「賜び給わる(タビタマワル)」ことと「食ぶる」ことなんよ、と民俗学者の走りである柳田國男が書いた。シーカヤックの旅は、ツーリングやらシーカヤッキングやけど、ツーリングは周遊、漫遊のことっちゃね。めぐり遊び、そぞろ遊ぶのがツーリング。周遊も漫遊も旅。この旅とツーリングの両方の意義を学ぶんが、横断隊の目的のひとつ。

で、旅はさらに学問だとも柳田さんは書き残しちょるけど、何の学問かというと、歴史と地理と国語。義務教育にそれが取り入れられたんは、この三教科は、日本が好きになるための教科なんやからだと。その学問をする場が、旅やらツーリングということになろう。横断隊は、歴史を学び、地理も学び、そして方言という言葉を学び、レポートで文章の修業をするから、まさに旅で学問しよることになる。それを旅行道とも柳田さんは書いちょった。

さらに、シーカヤッキングはアウトドアスポーツやけど、アウトドアは、「環境」を意味し、環境とはアウトドアのことなんよと、オレは何度も言うておる。環境は「四囲の外界」やから、環境こそがアウトドアになるっちゃね。アウトドアは、野外や屋外じゃねぇってことやな。横断隊はシーカヤックアカデミーの一環やけど、それはアウトドア教育になり、つまりは環境教育になるわけだ。今次の隊士にはモンベル社員が3人おったけど、モンベルは日本を代表するアウトドア会社で、それは環境会社というわけだな。環境省はアウトドア省になるわな。

アウトドアが外界だと分かれば、外界っちゃー何?となる。そりゃぁ、外の世界のことやけど、世界とは、「世」が時間を意味し、「界」が空間を意味するわけで、つまりは歴史と地理よな。環境は外の歴史と地理を意味するわけだ。やから、アウトドアってのは、外の歴史と地理を旅することになり、まさに横断隊がやってきたことになるんよ。横断隊は瀬戸内カヤック環境教育隊でもあったわけだ。

それに、原次期隊長を核にした「虹のカヤック隊」の核発電所建設阻止行動は、環境破壊阻止行動であり、まさに環境活動の核なんよね。核なる上は原始なりやし、原子力より原始力なんやな。その虹のカヤック隊は、元々横断隊の「山口組」から始まったものなんだな。命名したハルさんも、苗字が山口やけな。虹のカヤック隊のエレキ隊士とトージョー大使、いや隊士が横断隊を完漕したけど、彼らの今後の動きも気になるのぉ。トージョーの映画、楽しみじゃの。

ついでに、外界は身体の内にもあると思う。「からだ」ってのは、「殻」であり、「こころ」は、心の臓というように、内臓というか「肝」のことらしい。「ここる(凝る)」ものが心。内臓や血液なんだろう。やから、肩も凝る。でも、その心の内に、外につながるタマ(魂や霊、スピリット)があり、その部分は今の科学でもよー分からんもの。この魂なんかが内なる外界じゃないんかのぉ。内なる外界と外なる外界をつなぐのが、「気」なんだろう。「気」はエネルギーだな。核エネルギーより真っ当やな。

横断隊は常に気候、天気、気象、気圧、気温、寒気、空気、湿気、雰囲気なんかの気に行動を左右され、病気やケガ(気離れ)に気を付けながら、元気を取り戻し、勇気を持ちながら進む。弱気になったり無気力になったりすると進まない。気配りや気遣いは気疲れもするし、気を落とすと、筋肉が動かなくなる。でも、気を張っているから早朝に起きれるぃーね。気疲れしても、勇気が出れば元気になれる。そして、無事に祝島に到達したら、一気に気が抜け、忘れ物が多くなる。勇気が出せると、全隊士の全部を肯定できるっちゃね。それが隊長にとっての肝心!になるんやろな。

そうやって、横断隊を考えていくと、アウトドア教育、環境教育となり、野外教育というものが間違いだと分かる。政府やら学者が言う野外教育は、環境教育にせねばならず、環境教育には冒険が必要でもある。冒険はAdventureの訳語だけど、Adventureには投機という意味があることも忘れちゃいかん。つまり、冒険には投機が含まれるのだけど、投機は禅宗の言葉で、気のやり取りのことなんよ。師と弟子がやり取りするんが投機。投機は、禅宗修行者の機根が真精神にかなうことであり、機根は気根でもあり、そこにも気が出てくるんやなぁ。と、とことん横断隊になる。

ということで、横断隊は環境教育であり冒険教育でもあり、気の投げ合いでもあり、気の受け合いでもあり、そして結果としてビジョンクエスト(展望の旅)とならーね。今月(2012年12月)行われる総選挙のズレた争点とされる経済は、福沢諭吉が作った経世在民からの用語やし、国策であり観光庁まで作った観光とは、観國之光(国の光を観る)やし、そういう概念も含め、横断隊の10年があったとオレは心底(魂)思うちょる。

それで、今回の総選挙の本当の争点は、上関問題も含め、核発電をどうするかやろ。国難は核発電から始まっちょるんやから。津波被害は、自然災害やし、ほとんど埋立て地の被害でしかなかったんは、残った神社が教えてくれたっちゃね。明日にも、東海、東南海、南海地震が起り、巨大津波に襲われるかもしれない今の日本列島に暮らしている日本人は、外界の動きを知り、気を蓄えて使えるように準備する日々を過ごすしか生き方はないんだろな。そういう生き方を、横断隊の日々が教えてくれるんだと思う。それが、アウトドアライフやろな。外界生活だな。

と、だんだん、長う(なごう)なってきたけん、そろそろレポートも終わりにするけど、最後にこの10年70日間の横断隊に参加し、協力してくれた人々に、心から、いや魂からお礼を述べたいっちゃね。よくも無事故でやり遂げられたものだとも思うし、それはこれまで参加した隊士たちの成果であったと。そして、特に「こぶる(海を歩く)」という言葉を教えてくれた聖なる祝島、そして祝島のシミズの兄いやヒサボウさん、木村隊士(先生)、タカシくんや親父やらー、島の人たち、サポートしてくれたアッコ隊士や、シノ次期隊士やら、母さんになったカエ隊士とかには、感謝感謝ですよ。あと、神の渡りの白石島人や、途上で声をかけてくれた下津井の漁師らー。隊歌「漕ぐだけさ」を提供してくれた内田ボブにも感謝やのぉ。それこそ、書ききれんぐらいの、多くの人たちに支えられ、第十次までの横断隊は完遂したっちゃね。書き忘れた人がおったら、ごめん。それと、今次の最後の夜の反省会では、不覚にも寝てしもーて、申し訳ありまっせん、やったです。夜中に起きて村上の水軍隊士と語りおうたけど。

さて、これから10年後の第二十次瀬戸内カヤック横断隊がどねーなっちょるかが、楽しみじゃ。オレは66.8歳になっちょるちゃな。まぁ、来次からは、一隊士として参加したりしなかったり・・・?まだ、よー分からんわ。と、体重が5キロ近く減っちょって、喜んでおる隊長でした。(おわり)
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内田第一隊長殿、10年間おつかれさまでした!そして、ありがとうソーマッチです!いやー10年ひと昔つーけど、いろいろあって一言では語り尽くせねぇっすねー。とりあえず有言実行の皆勤賞・・おめでとうござんす。まあ、次の第十一次からは10年かけて育て上げた、体験を共有して来た信頼できる後輩、原コージを始め水軍、井出ッチ、楠、赤塚、本橋君等の若き隊士にこの横断隊の夢と希望を託し、隊長は心置きなく群青の母なる大海に抱かれて、どうぞ安らかにお休みお眠りください・・アーメン・・って、引退宣言はまだでしたっけ?ハハ ところで次期隊長コージのもとで誰が副隊長って?・・それだけはやめた方が・・皆のため隊のため平和のためにも。特に夜の宴は、オレとコージが一緒に呑むとろくなことがないっちゃ。まさに横断隊の鬼門ペアー。どちらかを隔離部屋(テント)に閉じ込めるか、隔離塀を用意するか、よっぽど遠ざけないと、またいつやらかすことやら・・まっ、とりあえずオレはフリーでいた方がと ・・どちらかと言えばもう介護組の方かも?・・もちろん夜の方で
  • 2012-12-08 21:32
  • ユー爺
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2003年第一次瀬戸内カヤック横断隊からの記録を掲載しています。

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