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2015第十三次瀬戸内カヤック横断隊レポート 西原敬治

第十三次瀬戸内カヤック横断隊レポート 西原敬治

  【はじめに】
 「う~ん、レポートが書きづらいなぁ」そんな気の重さを抱えながら、今キーボードに向っている。その原因は他でもない。このたびの横断隊に対する私の姿勢が、余りに消極的だったからである。今思い出しても冷や汗が出る。祝島スタート前夜、結団式での自己紹介の席上「どうかリーダーだけはご勘弁を…」と口走ってしまったのである。「横断隊はツアーではない、シーカヤックアカデミーの実践版だ」という趣旨から、いかに隔たっていたか。その翌日から最終日に至るまで、他の隊士がリーダーに指名されるたびに一安心する自分と、それを嘆かわしく思う自分が共存していた。そんな有様だから7日目午前10時からの最終ミーティングでも、“リーダー任せ”のような発言しかできなかった。
 しかし繰言はこのくらいにしよう。人間弱気のときもあれば、強気のときもある。来るべき14次横断隊に向けて意気を高めていくよう自分を励ましながら、まずその手始めとしてこのレポートを書き終えることにしよう。
  【今次横断隊を振り返って】
① 周防大島牛ヶ首
7日間のなかで唯一ヒヤッとした体験。2日目(11/22)、午前8時沖家室大橋通過。かなりの速さで潮が流れている。目の前の牛ヶ首を左に回り込めば、大島の東端が遠望できるはず。そのとき、隊長(だったと思う)がみんなに先駆けて偵察したところ、前方の海域がかなり荒れているとの情報が。用心して岬を回り込む。岬の先端を岸寄りにしばらく北進したとき、それは突然やって来た。周期が短く、振幅の大きい三角波。それを乗り切ろうと、全力で前に漕ぐ。すると前を行く艇に接触しそうになる。衝突を回避して一安心する間もなく、自艇のほぼ真下に岩礁が見える。波が引いて船底がそれに乗り上げたら、総重量が100キロを超える艇はひとたまりもない。「あっ」と声を出す前に、幸運にも艇はその上を通過していた。後から考えれば、私は危険回避のために最も近い入江を目指し西進していた。しかし、かえって水深の深い沖合に向って漕いだほうがよかったのではないか。現に、その日のリーダーの森隊士がそうしているのを、視界の隅に一瞬捕らえた。
② 諸島水道
同じく2日目、周防大島の東端を過ぎた後、3つの水道(諸島・怒和島・クダコ)のどれを通って鹿島に海峡横断するかについて、出発前のミーティングで議論になった。その日の情島の満潮は6時と18時、干潮は12時。どの水道を通るにしても昼過ぎで、向い潮である下げ潮流の影響は最強時よりは弱い。結局、諸島水道に面した情島南端まで行き海況を見た上で、渡れそうなら諸島水道を通って鹿島に向かうことに決した。結局現地ではかなりな潮目はあったものの、流されることなく通過できた。
このことから、潮汐表などの資料は参考とするものの、実際の海況は現地で確認すること。目的地に向う複数のルートが考えられる場合は、最も手近なルートの海況を確認し、問題がなければ(それが多少遠回りであっても)そのルートを選択すること。などを、自分なりに教訓とした。
③ 岡村島から北に向ったこと
4日目の出発前のミーティングで、「大三島南岸を東進し、船折瀬戸を目指す従来のルートではなく、大三島西岸を北上する北回りのルートをとってはどうか」という提案がリーダーの三澤隊士からあった。その主な理由は、船折瀬戸での潮待ちの時間が長すぎるということだったと記憶している。そのとき私は、「潮止りを長時間待ってでも船折を抜けた方が…」とか「船折がだめなら鼻栗はどうか」と、自分の中でまともに検討しなかった。5度目の横断隊参加で初めて経験する“本州寄りルート”への好奇心が、数段勝っていたからである。しかしその興味本位の思いは、大三島北端から高根島、そして佐木島から当日の宿泊地である岩子島と、向い潮・向い風の中を漕ぎ進むにつれてしぼんでいった。さらに芦田川河口近くの高浜からJFEコンビナート横の夏目海岸、最終着陸地点となった白石島と漕いだ6日目には、「もし従来の“南回りルート”をとっていたら…」という思いが膨らんでいった。
そこで結果論ではあろうけれど、それについて検討(の名に値しないかもしれないが)してみたい。当日、岡村離陸時刻は6時50分。船折瀬戸までの距離は20キロ。所要時間は、トイレ休憩などを入れて平均速度5キロとすると4時間。いま手元にある資料によると船折瀬戸の潮止りは15時20分、潮は翌日が大潮の中潮。瀬戸手前“マリンオアシスはかた”のビーチで1時間昼食休憩したとして、潮待ち時間は3時間余り。確かに長い。しかし完全に潮が止まるのを待つのではなく本隊はビーチに待機し、少人数の偵察隊を見近島あたりに出して潮流が弱まるのを待つという手もある(もちろん、それによって待ち時間がどれほど短縮できるかは未知数だが)。その際の宿泊地はうまくいけば弓削島(船折から20キロ)。潮止りまで待ったとすると、第10次横断隊で利用した津波島(船折から10キロ)。翌5日目は津波島を離陸した場合、横島・走島を経由して北木または白石までのルート(30キロ強)が考えられる。一方、鼻栗瀬戸だが、ここは大三島から伯方島に渡る途中でその潮流を観察することが可能だと思う。もしその時点で抜けられなければ(鼻栗の満潮は8:59、干潮は15:01なので向い潮か)、あらためて船折を目指しても遅くはない。また鼻栗が通過できれば、後は伯方島の北岸を東進し、岩城・赤穂根の間、生名・佐島の間を抜けて因島南東端の折古ノ浜で宿泊。翌5日目は前記の通りである。
しかし、「歴史に“たら・れば”はない」ように、横断隊でも「あのとき…していれば」は単なる繰言かもしれない(もちろん“南回り”が“北回り”より悲惨な結果をもたらす可能性だってある)。ただ私は岡村島に着陸してから就寝までの間、翌日のルートについて思い巡らすことが全くなかったことを、自分として情けなく思っただけである。原隊長によると、その夜私は焚き火のそばで持参した自家製のスモーク・チキンを隊士の皆さんに振る舞い、上機嫌に酔っ払っていたそうである(嗚呼)。
④ 鞆から北に向ったこと
 5日目岩子島を離陸。因島大橋をくぐり、阿伏兎瀬戸を抜けて、昼食休憩した小室浜を離陸した直後から雨が降り出し、鞆に近づくにつれて本降りとなった。気温も下降気味で“肌寒い”を通り越して“寒い!”という状態に。そんな中、本隊は鞆港の突堤を左に回り込み、そのまま岸沿いに北進する。「えーッ、どこを目指すの?」という思いが頭をかすめると同時に、右真横沖合に雨に霞んだ走島が目に入る。「北進するより走島を目指した方がよくない?」と一瞬考える。しかし前述のような気象条件のなか、岸を離れて沖に向って漕ぎ出すことを提案する気力は全くなかった。今考えれば、走島を目指すのであればその日の予定ルートを確認した上で、昼食休憩時に提案すべきであった。しかし、そのときの私はかじかむ手を擦りながら、弁当をかきこむことに余念がなかったのである。
 余談だが、その夕方急遽宿泊地と決まった高浜で焚き火を囲んでいたとき、その日のリーダーだった山本隊士から、「走島という手もあった」旨の発言があったように記憶している。「自分だけではなかった」と感じ、何だかうれしかったことを思い出す。
⑤ 危険なコンビナート地帯(宿泊地選定の重要性)
 6日目朝6時30分からのミーティング。雨はあがっているが、風がやや強い。天気予報では、この日の昼ごろから翌日にかけて風が強まり、波も高くなるとのこと。とりあえず岸沿いに東進し、JFEコンビナートの沖を横切り、御崎の“神島なびっくLAND”の浜(夏目海岸)に上陸し、そこで以後のルートを協議することになった。7時離陸。芦田川の河口を横切った地点からコンビナートの護岸が始まった。陸上の人間から見れば強力な波から守ってくれる頼もしい存在だが、海上のカヤッカーから見れば上陸をかたくなに拒む城壁でしかない。「こんな所で急に風が上がってきたら逃げ場がない」そんな恐怖心が湧き上がる。それとこれは私だけかもしれないが、幾重にも連なって海に突き出した広大な埋立地と、その間に設けられた芦田川以上の幅を持った大型船用の水路を見ていると、方向感覚が狂ってくるような錯覚に襲われる。また沖に見える巨大船は、その水路に向って前進しているのか、それとも停泊しているだけなのか判然とせず、やたら神経を疲れさせる。そして夏目海岸まであと1キロほどになったとき急に風が強まり、ノリ網によって隊は2つに分断されて着陸した。それは私にとっては“やっとの思いで逃げ込んだ”と言う方が当っていた。
 上陸後、白石島在住の原田隊士が差し入れてくれた行動食を頬張りながらミーティング(原田隊士はモーターボートを操船し、隊と伴走するためにコンビナート沖まで来てくれていた)。そこでの議論によって、選択肢は2つに絞られていった。その1つはこのまま本州沿岸(もうコンビナート地帯は終わっている)を東進する。その場合の宿泊地は、昼ごろから風が強まる見込みであること、約14キロ先から始まる水島コンビナートはJFEの数倍の規模であるので、そこを越えるのは不可能。したがって同コンビナートの手前でなければならない。その日のリーダー連河隊士は、グーグル・アースで調べた結果として沙美海水浴場の名を挙げた。しかし、瀬戸内のプロガイドである数人の隊士の誰も、そこを利用したことがない(そりゃそうだろうなぁ、ツアーで行くような所じゃない)。一体どんなところか?不安はぬぐえない。もう1つの選択肢は原田隊士が提案したもので、「白石島にある自分が営む民宿の広間を提供するので、そこに泊まればいい」。この議論にけりをつけたのは、赤塚隊士の次のような意見だったように私は思う。「自分がガイドとしてツアーの中で最も重視するのは、適切なビバーク地点(流木があって焚き火ができ、民家から適度な距離があり、強風が避けられる)を選ぶということだ」。隊は原田提案を受け入れ9時25分夏目海岸を離陸、白石島へと向った。
⑥ 白石島にて
10時過ぎ、白石島着陸。それを待っていたかのように強風が吹き荒れ、沖には白波が立ち始めた。間一髪。それ以後の原田隊士の歓待には感謝の言葉もない。ビーチに設置された大型テントの下での焚き火、暖房のきいたダイニングでの食事、そして1週間ぶりの入浴。根が軟弱な私は、「明日は少しでも瀬戸大橋に近づこう」という意志の80%を喪失していた。しかし残り20%を死守するため、その夜の飲酒はごく少量に控えた(つもり)。
翌朝、風は全く衰えを見せない。10時から、この日2度目のミーティング。一人ひとりが「白石を離陸すべきか否か」の意見を述べていった。その中に「離陸すべき」という声は聞かれなかった。何人かの隊士は、「個人的には離陸したいが、隊全体のことを考えると断念せざるを得ない」と考えたと思う。しかし、最終的に原隊長は停滞を決断。その時点で第13次瀬戸内カヤック横断隊は終了した。
ゴールの小豆島には到達できなかったが、今次横断隊はよく頑張ったと思う(特に女性の隊士たち)。思えば1日たりとも風や潮は我々に味方してくれなかった。そんな中を6日間漕いできたのだ。それで充分だ。
  【おわりに】
 ふと考える、「横断隊って、不思議な集団だなぁ」と。プロのガイドと、カヤックが趣味の1つに過ぎない自分のようなアマチュアが、渾然一体となって7日間漕ぐのである。白石港で笠岡行きのフェリーを待っているとき、原さんから「西原さんにとって、横断隊ってなに?」と訊かれ、思わず「修行の場ですねー」と本音で答えた。しかし、その“修行”の中身、突き詰めて言えばカヤックに対する“気構え”において、彼らと自分との間に天地ほどの隔たりがあることを痛感する。現に、森さんや山本さんは翌日漕いで各自のホームグランドである向島や小豆島に帰還しているのだ(森さんに至っては、向島からスタート地点の祝島まで漕いで行っている)。私には、そんなことは想像すらできない。このレポートの冒頭に書いた“弱気”の正体は、プロの隊士たちへの“気後れ”だと認めざるを得ない。そして私は横断隊に参加する際、「おじゃまします」という意識が未だ抜け切らないのである。そんなことを書くと原さんや元隊長の内田さん、そしてご意見番のユージさんに一喝(一笑?)されそうだが、自分の本心は偽れない。もちろん、それでいいとは到底思っていない。しかし、プロ集団の中で自分の“立ち位置”をどう考えればいいか、私は迷っているのである。横断隊に参加しているアマチュアの皆さん、あなたはこんなことを考えられたことがありますか?
白石島での最終ミーティングの中で、植村隊士が「今次をもって、横断隊のパドルを擱く」と表明された。プロ・アマの違いはあるが、同年のカヤッカーとして寂しい限りである。しかし、「これからは陸上からサポートする形で、横断隊に関わり続けたい」との言葉に感銘を受けた。ちなみに、植村さん引退をもって「爺様隊士が消滅?」といった趣旨のコメントがFBに散見されるが、これは私にとってとてもありがたい。これからは、年齢不詳の中年(?)カヤッカーとして、横断隊に紛れ込ませてください。
「このレポートにはカヤッキングに関すること以外はなるべく書くまい」と書き始めたにもかかわらず、最後に駄文を連ねてしまい申し訳ありませんでした。それでは、第14次横断隊での再会を楽しみにしながら、擱筆。
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Author:瀬戸内カヤック横断隊
2003年第一次瀬戸内カヤック横断隊からの記録を掲載しています。

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