→瀬戸内カヤック横断隊について←




←瀬戸内カヤック横断隊隊員の公開グループページはこちらのバナーから。

Entries

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
http://oudantai.blog98.fc2.com/tb.php/294-115306dd

トラックバック

コメント

コメントの投稿

コメントの投稿
管理者にだけ表示を許可する

2016第十四次瀬戸内カヤック横断隊レポート 糸井 孔帥

第14次瀬戸内カヤック横断隊レポート 糸井 孔帥



2016年11月18日から24日まで行われた「第14次瀬戸内カヤック横断隊」に参加した。前回参加した「第9次瀬戸内カヤック横断隊」から4年半の年月が経とうとしていた。“自ら成長できたのか”を見つめる学びの場として、もう1度瀬戸内へと立ち返った今回の横断隊は、失敗と成長の7日間となった。


i. 横断隊士として瀬戸内への帰還

 「瀬戸内カヤック横断隊」という言葉は、私に苦く辛い経験を想い出させる。前回(2012年3月の第9次)参加の際、中度の低体温症に陥り、他の隊士のサポートにより九死に一生を得た経験があるからだ。
 当時の隊長で、自らのカヤックの先生でもある内田正洋氏に依存した状態での参加だったため、準備の甘さがあった。その結果として、他の隊士に迷惑をかけてしまった自分を恥じた。そして、4年半もの間「瀬戸内カヤック横断隊」から遠のいてしまったのだ。
 その間も、他の隊士たちが「関東の隊士」として私に接してくれることに有難さを感じ、機会がある度に瀬戸内の隊士たちの元を訪れ、シーカヤックを通し瀬戸内を見つめてきた。また、「瀬戸内カヤック横断隊」に参加後、関東地方の横浜港を拠点にして、シーカヤックのインストラクターやSUPのガイドなどを生業にするようになり、現在に至る。さらに、機会がある度に日本各地の水辺で漕ぎ、経験も積んできた。このことが、何年もためらい続けてきた「瀬戸内カヤック横断隊」への再挑戦という決断につながった。
 この「第14次瀬戸内カヤック横断隊」に参加することにしたもう1つの要因は、20代最後という人生の節目だったからである。
 何かを決心するには、年齢の節目というのは極めて有効なのだ。

こうして、私は、「第14次瀬戸内カヤック横断隊」最初の離陸地点である小豆島(しょうどしま)へと向かうこととなった。
 瀬戸内にて毎度お世話になっている高松市の植村泰久隊士に見送られながら、岡山県宇野港へと到着。今回、白石島の原田茂隊士から私はカヤックを借りるため、宇野港にて原田隊士と落ち合うことになっていた。そして、関東から不眠不休で現地入りした三澤昌樹隊士と共に宇野の海岸から小豆島へと漕いで行く。
 その前夜、懐かしい顔ぶれにお酒も進み、私は二日酔いの状態でカヤックへの荷物パッキングすることとなった。カヤックの前後にある荷室に、荷物を上手く入れていくのであるが、頭が回らず全く捗らない。
 そのため、時間はかかったものの、なんとか無事にパッキングを終え東へと向かう。小豆島までは約20kmの航程だ。何度かこの海を漕いだ三澤隊士と海図を睨みながら、絶妙な追い潮に押され夕刻前には集合場所である小豆島南東のヘルシービーチへと到着した。
 我々2人が海から到着する。それを浜辺で、井上好司隊士と島津裕子隊士が出迎えてくれた。普段は空荷でカヤックを漕ぐことが多く、1人でも軽々とカヤックを担ぎあげることができるが、前後の荷室に荷物を満載したカヤックを1人で運搬することは困難である。着陸後、すぐにカヤックを数人で運搬することが、横断隊での大切な作法となる。
 上陸して初めてここで「第14次瀬戸内カヤック横断隊」に参加する隊士たちが明らかになってくる。陸路から海路からと徐々に隊士が集まり、今回は合計11名という少人数の瀬戸内カヤック横断隊となることが分かった。
 少し欠けた月の下、焚火を囲みながら隊士たちの自己紹介が始まった。私は人見知りの性格に加えて二日酔いのため、せっかくの前夜の宴に積極的に参加できなかった。この日、初めて会う太田裕治隊士から「夜の横断隊」交流も大切であるというアドバイスをもらい、翌日からの旅に備えた。


ii. 1日目~瀬戸内の洗礼再び~

 この7日間の海旅は、すべて異なる天候であった。11月中旬から下旬にかけてが、ちょうど季節の変わり目だからか、様々な瀬戸内を垣間見ることができた。

 四国島から昇る朝日に照らされながら1日目が始まった。
 7日間で最も潮流が速かったこの日は、潮に乗って瀬戸大橋を越え、笠岡諸島南域の小島まで漕ぎ進む約50kmの航程。瀬戸内のど真ん中をほとんど針路修正なく直線的に進む航程であった。1日目に隊を引っ張るリーダーを務めた、西原啓治隊士の性分が現れているようだ。関東地方周辺の海ではあまり体感できない潮流の速さに対し、私は力み過ぎて早速手にマメができてしまった。ぜんぜん瀬戸内に適応できていない。
 その航程で、私が前回の参加で低体温症を発症した自分の中では鬼門ともいうべき「テイタイオンの島」こと大槌島(おおつちじま)を越えると、瀬戸大橋の全体を見渡すことができるようになった。浅瀬となるこの海域では、潮の上を吹く風で叩き起こされる追い波が発生しやすい。追い波が、私のカヤックのコクピット内へと海水を注ぎこむ。どうやら、コクピットへの海水を防ぐはずのスプレースカートが、追い波の水圧に耐え切れないようだ。
 借りたカヤック一式であるが、装備のせいにはできない。自分でなんとかせねばならない。それが「瀬戸内カヤック横断隊」の考え方であり、シーカヤッカーの基本的な姿勢でもある。
 満水状態の舟のバランスを保ちながら排水する、その繰り返し。三澤隊士のカヤックと海上で筏を組ませてもらい可能な限り排水するが、いつまでもそんなことをしていて追い潮に乗った隊の足手まといになるわけにはいかない。
 原康司隊長に相談したところ、「後ろから追い抜いて行く波の進入角度を見ながら、腰を振ってコクピットに浸水させない」という手法を教えてもらった。この対策の実行もなかなか興味深かったが、波の角度や周期ばかり気にしていると視野が狭くなり疲労が重なる。その結果、波を見誤り浸水することも何度か発生した。この方法は、あくまで一時しのぎの応急処置である。
 そこまで荒れた海でなかったことも救いであったが、前回と大きく異なるのはウェアの準備が万端であったということだ。当たり前ではあるが前回の教訓は生かされている。
 もう1つ前回の教訓を生かしたことは、行動食の「飴玉」を厳選して持参してきたことだ。
 前回、休憩中に疲労困憊の私に、植村隊士が飴を幾つか分けてくれた。飴はそれぞれ包装されていて、PFD(ライフジャケット)のポケットに幾つか入れておけばベトベトせずに保存できる。休憩が終わり出発する前にポケットから2つ飴玉を取り出し口の中に放り込む。そして、漕ぎながらゆっくり飴を口の中で味わうのだ。そうすると、ゆっくりとエネルギーを吸収できる。その教えを元に、旅のお供に飴玉をよく持参してきた。その中で、私がオススメし今回も持参した飴玉は、舐め始めて少し経過すると食感が変化する「レモンスカッシュキャンディ」(不二家)である。かみ砕くとしゅわしゅわ口の中に広がる食感がたまらず、海の上でちょっと幸せな気分が味わえる。そのまま唇を舐めると、塩分が追加される。顔に飛んでくる波しぶきや潮風が乾き、顔全体が塩まみれ……。それを飴と共に少し舐め、塩分も摂取するのだ。
 夕刻、無人島……対岸に四国島の山々をはっきりと望む小島に着陸。夕食の際は、なるべく他の隊士と時間を共有し、持ち物や装備に関する情報交換を密にした。
 やはり、何事においても、コミュニケーションしないことには、隊全体がひとつとなり前に進むことはできない。この晩は雨に中断させられたが、この夜の時間を大切にしていこうと思った。その思いにとらわれたことが後に1つの失敗を生むのであるが、この時は露程にも思わなかった。


iii. 2日目~カヤックへの欲の載せ方~

 2日目は備後灘を西へ進む。
 笠岡諸島から水平線に霞む対岸の芸予諸島を望むと、〈環備後灘島嶼群(かんびんごなだとうしょぐん)〉とでもいうべき世界を理解できる。この海を反時計回りに芸予諸島北部の横島へと至る40kmの航程は、瀬戸内上空に大きく横たわる暗雲を眺めながらのスタートとなった。
 瀬戸内海は、東は紀伊水道、西は豊後水道の2か所から、潮汐が周期的に流出入する大きな内海である。そのちょうど真ん中を通る航程のため、潮の分水嶺がある。前線通過後、果てしなく広がる低い雲を眺めながら、パドルで分水嶺を探り漕ぐ。パドルで捉える水が軽ければ潮に押され、重ければ潮が逆となっている。その重さが切り替わる場所こそが分水嶺のはずだ。ただ、そのポイントを探り当てるのはなかなかに難しい。
 そうしていると、中世より良港と名高い鞆(とも)が近づいてきた。
 私は栃木県出身である。その地域は違うが、生まれ育った本州島に48時間ぶりに近づいたからだろうか。あるいは、この前月に鞆を村上泰弘隊士にガイドしてもらいながら漕いだからか、安堵感を覚える。
 その本州島を近くに感じながら、海沿いに建てられた阿伏兎(あぶと)観音の前を経由し横島へ着陸。
 その航程で強い向かい風に長時間さらされて、体温を少し奪われたためか、上陸した途端に疲労の蓄積で眠気が襲ってきた。眠くはあったが、流木集め、火起し、調理という上陸してからの他の隊士との交流時間。それは楽しいひとときであった。
 ここで、1つ不思議に思ったことがある。
 どんな方法で、カヤックの荷室にあんな大量のビールが隠されているのか、だ。私は大量のビールを荷室に入れるという選択を最初から放棄し、代わりにカヤックの前後先端部分の細くなった荷室の中に焼酎のボトルを入れてきた。もちろん、漕ぎ終わった身体は、爽快感があるビールのほうを求めているということは知っていた。ただ、積荷には限度があるから仕方がない。そのことで私が肩を落としていると、原隊長が1缶分けてくれた。有難い。
 この小さなカヤックに、海を旅していくにあたり、生きていくために必要最低限の荷物を載せ、さらに自分の“欲”も乗せていくというミニマリズムが浸透すれば、社会はもう少し気楽になるのだろう、といつの日からか思っているのだが、どうしたら30缶から40缶のビールが入るのだろうか。他の隊士のカヤックを見ると、どうやら、日常的に使用している装備や旅で必要な食材を厳選し、パッキングした結果生まれる隙間にビールを埋めているようだ。ここで選択するビールは、背が高い500mlビール缶ではなく350mlビール缶。狭い荷室の中では350ml缶の高さがちょうどよい。それらを漕いでいる最中に重量のバランスが均等になるよう、前後の荷室均等に潜り込ませているのだ。欲を乗せるのも技術が必要だ、と学んだ。


iv. 3日目~有難さは食と雨と隊士の存在~

 3日目の朝。離陸までの準備はもう手慣れたものだ。
 前夜のうちに、2つの調理も済ませてあった。
 1つはおにぎり。瀬戸内へと旅立つ前に、簡単にご飯を炊けると名高い「不思議なめし袋」(UNIFLAME社)を購入していた。紙素材で作られた手のひらサイズの袋に米を入れ15分ほど鍋で煮ると、飯盒(はんごう)や炊飯器などで炊いたようにご飯ができる。この防災用に重宝されているという袋を使用し、前夜に3食分のご飯を炊きおにぎりにしておいた。納豆と合わせて朝食に、ラーメンの残り汁と合わせて昼食にできる。
 もう1つは焼き芋だ。夕食時、他の隊士たちと談笑している間に、さつま芋を焚火の片隅に放り込み焼き芋が完成した。焼き芋は、寝る前に空鍋に入れて冷まし、翌朝カヤックのコクピット前ポケットに入れ、休憩中に頬張れば朝食だけではなく行動食にもなる。
 こうして朝の準備を簡略化することに慣れてきたため、出発まで少し余裕が出てきた。
 高積雲から漏れ出す陽を浴びて進む先は、通称しまなみ海道を有する芸予諸島の中央。
 この海最大の特徴は、潮流の速さ。ここは狭い瀬戸が入り組み、水道のホースをつまんだように狭い瀬戸から流出入を繰り返す潮の流れがある。そして、その流れは1日に2回発生する転流時での通り抜けが、シーカヤックでは現実的なのだ。無理をすれば、うごめく潮流に足元すくわれ転覆するかもしれない。ただそれよりも怖いことは、私がこの海以西を漕いだことがないということ。人は、自分がイメージできないことを何よりも恐れるものだ。
 “イメージできないこと”は緊張とそれによる疲れをもたらした。しかし、難所「舟折瀬戸(ふなおれせと)」を前にして緊張を払拭できたのは、他の隊士の存在と通り雨のおかげだ。
 長い湾の横断が続き、私は疲労で睡魔に襲われていた。そんな中、後方からリズムカルな声が聞こえてきた。村上隊士と工藤拓郎隊士が「えっさ~ほいさ~よいさ~こらさ~」とまるで餅つきの掛け声のようにリズムを取りながら漕ぎ始めた。自然と笑いが込み上げ心が和む。そのリズムに合わせて漕ぐと、身体が徐々に楽になってきた。
 伯方島(はかたじま)で強い通り雨がやってきた。とっさに私は無意識に帽子を脱いでいた。天を仰いで、髪をガシャガシャと雨で洗い流す。3日ぶりの真水……脂も塩も疲れも流すのだ。
 リズミカルな掛け声や雨で髪を洗う行為も、自然を前にして無意識に始めた行為であった。現代の日本においては滑稽に見える行為かもしれない。ただ、とても本能的でシンプルな行為は、自然の中では清々しく気持ちがいい。
 こうして、「舟折瀬戸」を前にして心身共にリラックスした状態で漕ぐができた。当日のリーダーである楠大和隊士が「学びの場」としての横断隊を尊重すべく、転流前で未だ逆流状態にも関わらず、瀬戸を学ぶために「舟折瀬戸」へと進む。時に流れが穏やかな瀞(とろ)を探し休憩しながら、時に小さな渦でクルクル回る。そして緩急をつけ一気に次の瀞へと抜けるという航程を非常に面白く感じることができた。無事にしまなみ海道が通る伯方橋を抜けると、3日目の着陸地点である大三島(おおみしま)が見えてきた。私は安堵したのか、またもや眠気に襲われ、まどろみの中を漕ぎ切った。
 「瀬戸内カヤック横断隊」は、海上の隊士だけで行われるものではない。今回は事情により参加できなかったが、瀬戸内各地で見守り、陸路からサポートに来てくれる隊士も多くいる。この日、38kmの航程の先に待っていたものは、陸路から駆け付けた森大介隊士による肉野菜がたっぷり入ったスープであった。この前日にもいただいたスープであったが、栄養たっぷりのスープは身も心も解してくれる。海だけでなく陸から見守ってくれる隊士の存在にも、有難みを感じる1日であった。


v. 4日目~ミカンとパイナップル~

 4日目は、大三島から倉橋島までの41kmの航程。追い風に身を委ね、島から島へと飛行するように漕ぐ。
有難いことに裕治隊士から、水圧にも強いネオプレン素材のスプレースカートを借りることができた。カヤックにジャストサイズのスプレースカートを装着したことで、追い風で生み出される波に乗りながら漕ぐことが容易にできるようになったのだ。装備状況と海の状況によっては途中離脱も検討しなければならないと思っていたため、裕治隊士には感謝してもしきれない。
 こうしてストレスなく波の中でも漕ぐことができるようになったため、4日目から会話をしながら漕ぐことができた。
 その会話で分かったことは、「追い風が好き」か「向かい風が好き」か、隊士によって好みが分かれるということである。強い追い風で波乗りしながら進むことに興奮する者と、向かい風の中、延々と漕ぎ続け次の場所へと辿り着くのを好む者と……。この時に生み出された1つの答えは、普段漕ぐ海に慣れていった結果で、好みが分かれるということだ。私が普段漕いでいる海は、関東地方の都市運河や東京湾、そして伊豆諸島である。その海では、追い風とうねりに乗りながら長く漕ぐ機会が多いので、どうやら、私は追い風が性に合っているらしい。
 定期船の航路を避けながら島から島へと渡る航程の中で、ミカンの果樹園に目が留まる。島々の急斜面にはミカン畑が段々と連なり、橙色で美味しそうなミカンを見るたびに喉の渇きが生まれるのだ。
 休憩中、隊士たちを見ると、ミカンやりんごを頬張っていた。私もビタミンの補給も重要であると思い持参したものがあるが、それはパイナップルであった。ミカンやりんごと違い、パイナップルはナイフで切るなどひと手間必要であり、かつ量が多いので短い休憩時間で完食できない。さらに、パイナップルは旅の荷物としてはあまりにも大きく、荷物としてかさ張るので荷室の1番奥で眠らせておいた。そのため、上陸して他の荷物をすべて出さない限りパイナップルにはありつけないのだ。結局パイナップルは、5日目の昼食で食べることとなった。
 こうして、4日目の午前は、荷室の奥にて眠っているパイナップルの存在を想いながら、島々のミカン畑にヨダレを垂らして過ごすこととなった。行動食の飴玉で我慢しながら、上蒲苅島(かみかまかりじま)へと着陸。
 昼休憩の後、上蒲苅島から離陸し、倉橋島まで上黒島(かみくろしま)経由で一気に渡るという井上隊士の判断で約10kmの島渡りとなった。ただ、着陸目標地点である倉橋島の先端「亀ヶ首」の場所が、私には特定できない。数km先に霞む倉橋島の島影は見えているが、島影の濃さが同一の岬がいくつか重なり断定できないのだ。着陸先の目標が不明確で、かつ集団で海を漕ぐ場合は、カヤック前方に取り付けたコンパスを見ながら、目標針路を決め航行するのが最も上手くいく方法である。例えば、他隊士と目標針路が1°異なる状態で数km漕いでいると、徐々に隊との距離が離れてしまう。特に、愛媛県松山港から広島県呉港へ向かう貨客船が、高速で通り過ぎるような水域ならばなお危険であるわけだ。なにしろ、大きな船舶からは、海からの高さ1mにも満たないカヤックは視認することが難しい。そんな海ではカヤック隊も固まって航行する。小魚が捕食されないよう集団で動き大きな魚に見せるように……。そんな意識で、ここは自分で特定せずに隊の針路についていくことにした。


vi. 5日目~失態~

 4日目ともなると、心身共に隊士たちとの旅に慣れてくるものだ。徐々に隊士たちとも打ち解けることができ、隊士それぞれ、余った食材を持ち寄り共同で炊き込みご飯を作るまでになった。そして、夜は焚火の前での談笑がありお酒が進む。
 ただ、隊士たちと打ち解け楽しく過ごす時間を多く取った結果、5日目の朝、私は二日酔いで目覚めることとなる。
 連日集合時間の1時間半前に起床し、テントなどをカヤックにパッキングして朝食を取り、集合時間にブリーフィング後、離陸をするという流れで過ごしていた。しかし、この日は二日酔いのため準備作業が全くはかどらず、私のせいでブリーフィングおよび離陸を遅らせてしまった。
 実はこの5日目にも難所が控えていた。倉橋島から南下し海を渡ると、津和地島と怒和島との間に狭い瀬戸がある。ここを通航するには、潮汐の関係で通過時間に限りがあるのだ。当然、私はその瀬戸の情報を事前に他の隊士から聞いていた。同様の瀬戸「舟折瀬戸」を3日目に通航したわけであったが、私はこの全航程の最大難所は既に過ぎたと思っていた。「まさかそれ程の難所ではなかろうか」と軽視してしまったのだ。実際、5日目のこの瀬戸通過後に振り返ると、流れが発生し「水の段差」が生み出されていたのである。それは、まるで川の下流から上流を眺めるような高低差だ。それだけ、潮流が速いということだ。潮の力、恐ろしや……。
 海の情報を知っていたにも関わらず軽視してしまい、結果的に隊全体の出発を遅らせてしまったことは深く反省すべき点である。
 そして、その失態をしっかりと見ていた原隊長により、私は6日目のリーダーに指名された。それまで原隊長は、私が2回目の参加でも、初見の海域を任せるには不安であるということで、リーダーに指名しないことにしていたそうだが、「共に、瀬戸内に向き合う隊士の1人であるという責任を持ってほしい」という意味を込めて指名したのだ。
 どこかでリーダーを受け持つのだと覚悟を持って参加した「第14次瀬戸内カヤック横断隊」であった。しかし、まさかこの周防大島という全く初めての海で針路を取るというのは予想していなかったこともあり、なかなかのプレッシャーであった。
 5日目リーダーを務めた三澤隊士と、周防大島周辺が地元という角田浩太郎隊士に助けられ、パイナップルを食べながら、6日目の針路を決めていくことになった。5日目の昼食時に、ようやく荷室奥から出され、カットされたパイナップルの残りをタッパーに入れていた。この「パイナップル解禁」を、誰よりも待ち望んでいた三澤隊士とパイナップルを分けながら、海図を睨んだ。ここで、1つ大きな問題に突き当たることとなる。
 それは、最終着陸目標地点である祝島に6日目でゴールするか、7日目でゴールするか、という問題である。
 「瀬戸内カヤック横断隊」の目的は、7日間かけて瀬戸内と向き合い海を学ぶというものであり、スタート地点からゴール地点まで完漕するというものではない。では、7日間かけて祝島に到達としたときどうなるかと考える。7日目の天候が悪天であり、祝島前の海峡を渡ることができない可能性が高い。5日目夜に野営した周防大島南端の「牛ヶ首」から祝島まで距離にして42km。今回集った隊士たちならば、1日で漕ぎ切ることができる可能性は高い。それならば、私がリーダーを務める6日目で祝島まで漕ぎ切る。これが、現実的ではないかと確信し、6日目の朝を迎えることとなった。


vii. 6日目午前~リーダーとしての難航~

 6日目の朝、私はそれまでよりも早く起き、1人準備を始めた。
 祝島までの42kmは、西へと向かう航程。天候は、この6日間で最も悪かった。風向きは、北北西から北東へ変化することが予想される。
 海図を見る限り、周防大島から本州島、そして長島の上関(かみのせき)にかけてそれぞれ島の南部を通るため、上手くいけば、島を壁にして風を遮ることができるかもしれない。ただ、注意すべきは周防大島から本州島までの海峡横断と、長島から祝島にかけての海峡横断である。なぜなら、ここは、進行方向左からの強風が直撃する中での横断となるからだ。
 その中で、周防大島から本州島を経由し、祝島が対岸に見える上関の田ノ浦までの航程が大半を占める。しかし、海況によっては、田ノ浦から4km先に見える祝島まで渡ることができないケースがある、ということだ。「まずは、田ノ浦まで進んでみよう」と私は思い、田ノ浦までの航程を3航程に分け針路を考えた。
 つまり、周防大島南岸を通り海峡横断までの1航程目、本州島まで海峡横断し昼休憩場所へ着陸する2航程目、そして本州島から長島にかけて上関市南岸を西へと進み田ノ浦へ着陸する3航程目に分けて6日目を捉えてみた。航程全部を1つとみなすと大きな問題であるが、航程を分割することで問題対処が容易になる。
以上の状況を考えながら、野営地を離陸する。南に見える沖家室島(おきかむろじま)の彼方から雲の隙間を縫って朝の気配を感じ、6日目が始まった。

 私はリーダーであるが、なにぶん初めての海を漕ぐため、その海に詳しい角田隊士に頼みサポート役として隣についてもらった。私は大声を出すと声帯が潰れるからか、遠くまで声が通らないことが悩みだ。一方、角田隊士は声が海の上でもよく通る。うらやましいことである。彼のように遠くまで通る声の持ち主が隣にいるだけで、全体に指示が通りやすいという安心感もあった。
 前夜のうちに角田隊士に聞いてみたところ、周防大島と本州島の間の海峡も潮の転流時刻に影響を受ける場所であるということだ。つまり、周防大島沖をゆっくり漕いでいると、潮の流れが逆になり、本州島までの横断が困難になる可能性が高い。よって、可能な限り最短距離を通ることで、途中の湾の入り口を一直線に横断しながら、無事に本州島が見える周防大島の法師崎(ほうしざき)まで順行することができた。隊全体の意思が「前へ前へ」と伝わってくるからだろうか。航行速度を速く感じた。裕治隊士曰く、隊後方から先陣のリーダーへと気を送る「パドルかめはめ波」というらしい。
 この航程の中で、周防大島の山々の北側には暗雲立ち込め、山々の隙間からは強風が漏れ出していたのを悪天候の到来かと私は嫌らしく感じていた。
 実際、法師崎にて休憩を取ってみると、その場は周防大島に風が遮られ穏やかに感じるのだが、目の前の海峡中央を見ると、吹き降ろす風がそのまま波へと転化しているのがよく見える。この横断は、厳しいものとなることが予想された。
 海峡の中央南には下荷内島(しもにないしま)がある。まずはその島を目安に横断を始めてみると、予想したよりも右後方からの風が強い。真後ろからの追い風で上手く渡り切ろうという私の思惑は一旦白紙に戻し、下荷内島まで横断する。
 そして、次は本州島までの横断である。ここは船舶の往来があるので要注意。対岸に一番高くそびえる皇座山(おうざさん)を目標にすることで、海峡の最短距離を横断できる。その計画で横断を開始したが、途中から前述した風向きにより、徐々に隊が南へと流され始め、風波により隊はバラバラになりつつあった。
 ここで私は下策を取ってしまった。隊が徐々に南へと流れていく中、最短距離での横断を諦め、風に流されながら本州島へと渡りつこうと考えたのだ。ところが、皇座山という絶対的針路を失ったため、隊の分裂を悪化させてしまったのだ。運よく船舶が通航しなかったからよかったが、航路横断で最短距離を狙わない失敗をその夜の反省会で指摘されたのは当然といったところ……。
 なんとか海峡横断を終えるも、昼休憩に適した浜辺を見つけるのに時間がかかった。風を遮ることができる穏やかな浜辺が見つからない。真っ先に原隊長に尋ねるのが早いが、可能な限りリーダーとして自分で判断したいという思いがあった。ただ、海図を見ながら次の浜を探るわけだが、リーダーがこのように不確かな時は、強風と波で疲れ切った隊の気力がさらに下がるのは明白であった。それを誰よりも感じ取ったため、最終的に私は原隊長に浜情報を確かめ、ようやく風裏となる浜辺にて昼休憩を取ることとなったのだ。


viii. 6日目午後~祝島着陸~

 6日目午後の航程で、横断隊は、その環境に合わせて隊の形を変化させながら、最終的に祝島へと到達した。この航程は、私にとって瞬時に判断を実行に移さねばならない時間となった。

 強風から隠れることができる岬の裏側で昼休憩を取りながら、私はこの先の海について原隊長に尋ねてみた。
 強風から隠れたといっても、岬の先端から徐々に漏れ出してくる風は徐々に風力を強めている状態だ。その風を肌で感じながら、原隊長は私の海図を指さした。そして、「長島まで渡った後、エスケープできる海岸はいくつかある」と言葉を始め、祝島が視程範囲に着く長島南端までの海を教えてくれた。
 ポイントは3つ。
 本州島から長島まで渡る狭い水路の奥が港であり、船舶の往来が頻繁にあるが見通しが悪いということ。
 長島南岸には3つの湾があり、それぞれ集落がある。場合によってはエスケープし野営できるということ。
 長島南端とその南に浮かぶ天田島(あまたじま)間の狭い水路は、岩場が多く浅いため、波が立ちやすいということ。

 その上で針路を検討し、午後のブリーフィングを開始。通常よりも長く休憩を取った横断隊は、心身共に回復し気力を高めて離陸した。
 私が最後に浜を発ったところ、私のカヤックに不調が起こった。どうやらカヤック後方に付いているラダー・舵が利かないようだ。もちろんラダーなしでも航行はできるが、リーダーとして隊を率いている以上、自分の中でのリスクは早めに取り除いておきたい。すぐ原隊長に報告相談、上陸し楠隊士にラダー修理をお願いした。これも本来自分で直すべきところであるが、工具や道具を持つ習慣が私にはなく、今回も持ち合わせていなかった。焦っていた私に対し、楠隊士は、プライヤーとドライバー、新たな“かしめ”を工具セットから取り出して私の横へ上陸した。「ラダーのワイヤーが“かしめ”から外れることは、比較的多いからな~」とカヤックの症状を話し、修理のポイントを私に分かりやすく気さくに説明してくれた。改めて準備に必要な知識と装備であると私は学ぶ機会となった。
 ただ、ラダーを自分で直すことができなかったという事案よりも、私はブリーフィングで隊の気力を高めたにも関わらず自分の事案で隊の航程を遅らせ気力を削いでしまったであろうことに申し訳なく感じた。リーダー自ら出鼻を挫いたのだ。
とはいっても、難所は目の前。
 本州島と長島間の狭い水路は船舶の航行量が多いが見通しが悪い。ここは角田隊士に全体を横1列にしてもらうよう頼んだ。私が航路の奥まで見通せる場所まで1人先を進み、合図をしたら隊全体で横断を始めるという方法だ。ここで実施した方法は、普段、私が船舶の往来も多く死角も多い横浜港にて航路横断の際に、合図を送る方法である。私は船舶の往来に問題がないと判断すると、瞬時にパドルを高く上げた。角田隊士が、横断の合図を受け一斉に航路横断。
 無事に航路横断を果たすと、3つの湾が待ち構えていた。湾口を抜けるのが最短距離であるが、逆向きに流れる潮流に引っかかるかもしれない。3つ湾があるので航路を選ぶ実験をするにはちょうどよい環境であった。
 1つ目の湾は、湾口を一直線に渡り少し潮流の影響を受けて疲労。2つ目の湾は、風から逃れるためにと考え、湾奥岸沿いを舐めるように航行した。この極端な私の航路選びに対し、原隊長からは「いい塩梅で漕ごうよ」というアドバイスが。「いい塩梅」というのは抽象的でシンプルな言葉だが、こんな海でこそ活きる言葉もあるのだと実感した。3つ目の湾は私なりの塩梅で通ってみることにした。

 我々は、途中、陸路からの応援が何度かあった。長島の切り立った崖沿いを通るように県道が通っている。そこから子供たちの声援が聞こえてきた。
 遠距離でよくカヤックを見つけたものだな、と感心していたところ、どうやら応援隊は原隊長のご家族や「瀬戸内カヤック横断隊」の活動を応援してくれている塚本健・真理夫妻のようだ。道理でカヤック隊の探索に慣れているわけだ。
長島の蒲井(かまい)港の突堤に駆けつけた応援隊に見送られた。その後、長島南端の水路へと突入していくわけだが、ここで私からある提案を行った。
 1列縦隊での水路突破である。
 この1番のメリットは、細い水路を通航するのに有効であるということだ。幅数百メートルの水路の中央は、潮流が進路とは逆に流れ、エスカレーターを逆走しているかのように前進できないと仮定し、島沿いを航行。一方、島沿いは浅瀬で岩場が多い上に、風向きと潮流が逆行しているため大波が立っていた。もし波に乗ったらコントロールを失い、岩場や前方の隊士に衝突する恐れがあった。私が先頭で漕ぎ、全体が通るラインを引くという作業。波の頂点で海面下に隠れている岩を探し、後ろへ「海上の伝言ゲーム」をしながら岩を避けるわけである。
 ここで1列縦隊のデメリットに気が付いた。それは、伝言が風でかき消されて最後尾まで到達しないということだ。ここは200km以上の航程を共に漕ぎ、6日間苦楽を共にしてきた隊士全員を信じるしかないわけだ。
 もう少しで難所の水路を抜けられる、そう思った瞬間に雲の隙間から日光が海面に強烈に射し込んだ。サングラスをしていても眩しさを感じる太陽の出現で、海面の情報が一気に読み取れなくなる。眩しくても海面から目を背けず、少ない情報を読み漕ぎ続けた。そして、ようやく隊全体が水路を抜けることができた。1kmにも満たない距離の水路が、これほどまでに長く感じるとは……。
 ふと目を上げると、それまで切り立った長島の海岸線で見えなかった景色が現れてきた。西の空が暗雲に覆われる中、雲の隙間から射しこむ日光がある島を照らしていた。その島こそ、最終着陸目標地点である祝島。息をのむような光景に見とれた。まるで時が止まったような壮大な風景……これ以上美しいものはなかった。私は、その光景に緊張の糸が切れそうになり思わず涙ぐんだ。ただ、未だ海上であり、リーダーの責務を全うしていない。深呼吸して心を落ち着かせ、無事祝島を対岸に眺める田ノ浦に上陸することができた。応援隊も陸路から田ノ浦に到着し、一息ついて祝島までの海峡を渡ることとなった。
 隊全員が離陸するのを確認し、私も離陸しようとカヤックに乗り海に浮かんだところで、あるアクシデントが起こった。応援隊の塚本氏の愛犬が、泳いで私のカヤックの上に乗ってきたのだ。数秒間、何が起こっているのか私は理解できなかった。このまま同乗して祝島まで行きたいのか……。バランスを保つのに必死な私。危うく転覆しそうになった。塚本氏に呼び戻され、最終的にカヤックから海へと戻り泳いで浜へと戻っていた。後にも先にも、あのアクシデントが最も危ういことであった。
 さて、無事に私が離陸を終えると、「逆V字型」のフォーメーションで海峡を渡り、祝島へ着陸することとなった。
 この「逆V字型」のフォーメーションは、裕治隊士の提案であった。
 毎年多くの隊士が参加する「瀬戸内カヤック横断隊」では、フォーメーションを組んで航行することが、最近の習慣となっていた。ところが、この14次では少人数での航行のためか、隊としてフォーメーションを組むというのは実施していなかった。そこで、「最後くらいフォーメーション組んで格好良く祝島へゴール決めようぜ」ということとなった。
 先頭は「第14次瀬戸内カヤック横断隊」紅一点の島津隊士。島津隊士を基点に男性隊士が左右の翼となって海峡を渡るというものだ。私は前後に隊士を控えた状態でリーダーを務めることとなった。
 祝島唯一の上陸可能地点を目指し「逆V字型」フォーメーションで漕ぐのだが、右後方からの強風に流され、南へと流されていった。それを阻止すべく私は針路を北方向へと変えていくのであるが、この残り3kmほどの海峡は船舶の往来が激しい。漁船ではなくタンカーのような巨大船が引っ切り無しに通航していた。海面まで高さがある船室からは足元のカヤックの存在は見えないので、カヤックから回避行動を取るというのが我々の取るべきマナーである。直近に回避すべきは右からやってきたタンカー。このまま針路変更をしないと、隊と衝突し大事故になる。一方、左からもタンカーがやってきた。ただ、こちらの回避行動を取るには、少し猶予がありそうだ。
 以上の条件を考え、私は隊の針路を右からやってきたタンカーの後方部分・艫(とも)へと向け、一時的に航行させた。タンカー通過後、すぐに左に見える祝島の港への転進。こうして左からのタンカーも回避することができた。判断は数秒で実行しないと、常に変化する海の状況や船舶の往来には適応できない。
 こうして、無事6日目で祝島へと到着することができた。
 緊張の糸が切れ眠気が襲ったので、その夜は誰よりも早く寝ようかと考えていたのだが、夜分まで裕治隊士と話していた。結局、最後に床に就くこととなった。


ix. 7日目~荒天の島での過ごし方~

 7日目は、予報通り大荒れの天気となった。ただ、7日間瀬戸内と向き合い学ぶことが主題であるのが「瀬戸内カヤック横断隊」である。早朝の浜辺に集まり海の状況を眺め、昼に中止の判断がなされた。海に出る代わりに島を散策し、その晩の反省会で隊士それぞれが学んだことを話す島談義が行われた。
 ただ、大荒れの海に出撃するという猛者はいるものだ。三澤隊士がカヤックで祝島を一周するという。「瀬戸内カヤック横断隊」に何度か参加している三澤隊士は、1日使って祝島を海から一周する機会は今までなかったそうである。私も誘ってもらったが、島内への興味があったので、その話を丁重に断った。こうして、三澤隊士ただ1人が、この「第14次瀬戸内カヤック横断隊」の7日間瀬戸内に漕ぎ出し向き合うという目的を達成することになった。


x. 7日目~祝島散策~

 三澤隊士が、荒れた海に出撃していた頃、私は祝島にあるという棚田を見るために塚本夫妻と隊士数名で島の裏手へとトレッキングをしていた。
 祝島という島は面白い島である。それは6日目、祝島への最後の海峡横断時に気が付いた。
 祝島には、それまで漕いできた瀬戸内の島々と大きく異なる点が存在する。スタート地点であった小豆島やその他野営してきた瀬戸内の島々は海から山までなだらかに稜線を描き、その途中に集落が点在しているのが特徴である。もちろん柑橘類の段々畑のように山から海への急斜面もあるわけだ。一方、この祝島は人を寄せ付けないような断崖絶壁の島である。お椀をひっくり返したような島は、まるで絶海の孤島のようだ。私がたまに訪れ、島内交流やガイドやカヤック遠征をしている伊豆諸島の島々と、よく似た地形である。
 その祝島は、島の北東側にのみ港があり集落がある。集落の中の道は迷路のごとく入り組み、私は7日目の夕方までに歩き回り、ようやく地形を把握することとなった。
ところで、私は初めて訪れた町や場所で無意識に最初に探すものがある。墓地の場所である。
 例えば、関東地方の利根川周辺では田畑の中に墓地が点在し、豪雨で周辺が冠水する際は共に水底へと沈む。瀬戸内の島々を見ると、主に太陽が“去く(ゆく)”方角である西側の小高い丘、もしくは海のすぐ側に固まっている。
 ところが、この祝島では海抜50m近くに固まっている。まずは墓地まで上がり、眠っているこの島のご先祖たちと同じ景色を眺めてみた。すると、6日目に漕いできた軌跡を眺めることができた。
 対岸に目を移すと、一際、穏やかで美しい浜が目に留まった。海図を思い返してみると、その浜は、6日目に祝島までの最後の横断を開始した田ノ浦であった。
 その田ノ浦と周辺海域に中国電力が原子力発電所を建設しようと埋め立ての申請を願い出て数十年が経つ。そして、祝島の人々はそれに反対している。この「瀬戸内カヤック横断隊」も祝島の人々と行動を共にしている。
 本来、最も美しい海を眺めながら島のご先祖たちと共に過ごすという意味を込めて、その墓地の場所となったのであろう。その目の前の海が埋め立てられ、無機質で将来性が乏しい建物が建つということは「ナンセンス」だと私は思う。
 墓地から海を眺め終え、山の中を行く一本道へと入っていく。竹林が生い茂っているが、各所に棚田があった名残が垣間見えた。1時間ほど歩き景色が開けると、道沿いに大きな壁が現れた。どうやらその壁が目当ての棚田のようだ。まるで城壁のようにそびえ立つ棚田の上に登ると、階下のミカン畑から声が聞こえてきた。ミカン畑の中に人がいるようだが、こちらからは視認できない。
 すると案内してくれた塚本健氏の愛犬が一目散にミカン畑に突入し道が示された。後から辿り着くと、ミカンの収穫をしている老夫婦に会うことができた。話を聞いてみると、どうやらその平(たいら)夫婦が棚田の所有者だそうだ。平氏の祖父が一から築いたという自慢の巨大な棚田であったが、もう平氏も加齢により棚田の上まで登り手入れをすることを止めるらしい。この途上に垣間見た竹林も、棚田を放棄した結果なのだ。収穫したてのミカンを頂戴しながら、長い時の流れに共に想いを馳せた。

 下山後は、昼食を島内の食堂で済ませて他の隊士と別れ、島内散策を1人行った。
 商店を見つけ飲み物を購入するため店内へ入る。店頭には女性がいて、週に数回本州島から船で通い、商店の手伝いをしているらしい。飲み物を持ち島内散策を開始するが、迷路のような道である。辻で島の人と会う度に道を聞き、挨拶や世間話をするという穏やかな時間を過ごした。祝島特有の「石積みの練塀」に囲まれた私道なのか公道なのか全く見分けがつかない道々をネコのように練り歩き、神社や山中の行者堂まで散策していると夕刻になってしまった。
 暗くなってしまった海沿いまで戻ると、喫茶店の明かりに吸い寄せられ入店した。「祝島ブレンド」という珈琲と手作りのケーキを注文し、店内に置いてある祝島の書籍や写真集を眺める時間。冷え切った身体を温めるにはよい時間となった。18時になると、島の若者たちが集まり島談義を始めた。どうやら、島外のイベントに出店する打合せをしているようだ。
 島を想う人が島の中に多くいる。私が住んでいる本州島でも、同じように小さな繋がりが続けば幸せなのだろう。

 翌8日目が「第14次瀬戸内カヤック横断隊」解散の日となった。定期船で帰る隊士、祝島の清水船長の船をチャーターして帰る隊士、漕いで帰る隊士と別れ、それぞれがまた元の場所へと帰っていく。反省会のときや別れ際、前回、私が参加した「第9次瀬戸内カヤック横断隊」で一緒になった楠隊士からは「最高のリーダーやったよ」、原隊長からは「まるで別人のように見違えた。またよろしくな」と、褒められたことが何よりも嬉しかったことだ。6日目の夕方に、わざわざ祝島まで駆けつけてくれた内田元隊長には、「リーダーやったのか、やるじゃん」と、私の肩を叩きながら笑顔で言われた。シンプルな言葉だが、非常に有難みを感じた。
 そう言えば、前回低体温症で苦しんだ私には「テイタイオン」というあだ名が付けられたが、今回で汚名返上となった。
代わりに「ジャイアンもとい」というあだ名が裕治隊士によって付けられた。私の漕ぎ方を日中観察していた裕治隊士は、「漕ぎ方が、ドラえもんに出演するジャイアンが身体を揺らしながら歩くようだ」という私の漕ぎ癖を指摘。そして、私がリーダーを務めた6日目、私が針路修正の際に発する口癖が「もとい~(修正の際に冒頭につける言葉、そうではなくという意味)」という言葉から始めたところを、後方で苦笑しながら聞いていた隊士たちが指摘。結果「ジャイアンもとい」という名前を頂いたのだ。
 こうして新しい門出となった「ジャイアンもとい」は、三澤隊士と共にカヤックで漕いで祝島から長島の蒲井まで戻り、関東地方へと帰還した。
 この「瀬戸内カヤック横断隊」に参加し瀬戸内に向き合う時間は、私にとって素晴らしい時間となった。その経験があるからこそ、共に海と向き合い寄り添う人々との繋がりを大切したいと思える。そして、瀬戸内だけではなく、全国の海へと向き合う糧としたい。それが、自分の生きる道標となっていくのではないかと思う。
 今回、苦楽を共有したことで、海でも島でも信頼することができるカヤックの仲間ができたことである。それまで、単独で海に向き合い旅をしていくことが、シーカヤッカーの面白みであると思っていた。しかし、互いに信頼できるチームで旅をすることが、これ程までに楽しく刺激的なものだとは、今回初めて気が付いた。
 「第14次瀬戸内カヤック横断隊」以前も、他の隊士に「関東の隊士」として接してもらっていた私であった。しかし、私の中で「半人前」という心の隔たりがあったのかもしれない。ようやく、この旅を通して、私も「隊士の1人」になることができたこと。それを実感できたことが、私にとって最も素晴らしい経験となった。


xi. おわりに

 今年も第15回を迎える「瀬戸内カヤック横断隊」が11月に行われる。
 「シーカヤックアカデミー」の実践版として始まった横断隊。ツアーやスクールではなく、アカデミーである。参加するには、海に向き合い寄り添う1人のシーカヤッカーとしての自覚と責任が必要になってくる。私がこの海旅を通して学んだように、失敗も含め様々な経験が待ち構えているだろう。ただ、その学びの中で、必ず次へ進むための活力を自ら得ることができる。
 この私のレポートが、「瀬戸内カヤック横断隊」に挑戦してみたい人、瀬戸内という海を通して世界を考えてみたい人にとって、次の「瀬戸内カヤック横断隊」に臨むための参考資料になれば有難い。

スポンサーサイト
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
http://oudantai.blog98.fc2.com/tb.php/294-115306dd

トラックバック

コメント

コメントの投稿

コメントの投稿
管理者にだけ表示を許可する

Appendix

プロフィール

瀬戸内カヤック横断隊

Author:瀬戸内カヤック横断隊
2003年第一次瀬戸内カヤック横断隊からの記録を掲載しています。

検索フォーム

QRコード

QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。